永井荷風(ながいかふう)

小説家・永井荷風(ながいかふう)は筆名(ペンネーム)で、本名は永井壮吉(ながいそうきち)と言う・

千八百七十九年(明治十二年)十二月三日 、永井壮吉(ながいそうきち)=永井荷風(ながいかふう)は永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)に生まれた。

壮吉(そうきち)の父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官僚で、内務省衛生局に勤務した後に日本郵船に天下った。

壮吉(そうきち)の母・恒は久一郎の師で、儒者の鷲津毅堂の二女と言うエリート家系だった。

千八百九十一年(明治二十四年)に、壮吉(そうきち)神田錦町に在った高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)二年に編入学した。

千八百九十四年(明治二十七年)に病気になり荷風(かふう)は一時休学、病気による長期療養が元で一年留年している。

千八百九十七年(明治三十年)三月に、荷風(かふう)は漸く中学を卒業する。

同千八百九十七年七月、荷風(かふう)は第一高等学校入試に失敗、九月には家族と上海に旅行し、帰国後の千八百九十八(明治三十一年)、旅行記・「上海紀行」を発表する。

この「上海紀行」が現存する荷風(かふう)の処女作と言われている。

同時期に神田区一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学・東京外国語大学)附属外国語学校清語科に臨時入学したが欠席が過ぎて二年後に除籍になる。

千九百八年(明治四十一年)、荷風(かふう)二十九歳で「あめりか物語」を発表する。

翌千九百九年(明治四十二年)の「ふらんす物語」と「歓楽」は退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようで風俗壞亂(ふうぞくかいらん)として発売禁止の憂き目にあう。

夏目漱石(なつめそうせき)からの依頼により東京朝日新聞に「冷笑」が連載され、その他「新帰朝者日記」「深川の唄」などの傑作を発表するなど荷風(かふう)は新進作家として注目される。

注目を受け、荷風(かふう)は森鴎外(もりおうがい)夏目漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。

千九百十年(明治四十三年)、森鴎外と上田敏の推薦で、荷風(かふう)は慶應義塾大学文学部の主任教授となる。

教育者としての荷風(かふう)はハイカラーにボヘミアンネクタイと言う洒脱(しゃれ)な服装で講義に望んだ。

講義内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。

しかし荷風(かふう)教授ととの雑談は「講義以上に面白かった」と佐藤春夫(さとうはるお)が評したように好評だった。

この講義から、佐藤春夫(さとうはるお)の他に水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。

この頃の荷風(かふう)は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)を見出す。

荷風(かふう)は訳詩集・「珊瑚集」の発表、雑誌・「三田文学」を創刊し、谷崎潤一郎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。

荷風(かふう)は、華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けた為、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。

為に、千九百十二年(明治四十五年/大正元年)、父・久一郎に本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女・ヨネと結婚させられる。

所が、翌千九百十三年(大正二年)に父・久一郎が没し、荷風(かふう)が家督を継いで間もなく離縁している。

次の年、千九百十四年(大正三年)には新橋の芸妓・八重次(後の藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。

しかも八重次との生活も翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現中央区築地)の借家へ移った。

千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)四十七歳の頃から、荷風(かふう)は銀座のカフェーに出入りする。

荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、千九百三十一年(昭和六年)「つゆのあとさき」、千九百三十四年(昭和九年)「ひかげの花」など新境地の作品を作り出す。

このころ各出版社から荷風の全集本が発売された事により多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。

旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、荷風(かふう)は友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街に遊ぶ。

そんな成果が実り、千九百三十七年(昭和十二年)には「?東綺譚」を朝日新聞に連載、この小説は後に映画化されている。

随筆では、下町の散策を主題とした「深川の散歩」、「寺じまの記」、「放水路」などの佳作を発表している。

永井荷風(ながいかふう)の日常も、大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な風俗が反乱する時代の作家に相応しく、艶聞に色どられたものだった。

永井荷風(ながいかふう)もまた、谷崎潤一郎と同様に女性との艶聞遍歴が創作意欲であり、体験的な「作品の種」だったのだろう。

荷風(かふう)が関係した女性達については、自らの日記・「断腸亭日乗」の千九百三十六年(昭和十一年)一月三十日付けの記事に列記している。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-14 00:55 | Comments(0)  

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