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太宰治(だざいおさむ)

太宰治(だざいおさむ)は、本名を津島修治(つしましゅうじ)、筆名(ペンネーム)を太宰治(だざいおさむ)とする小説家である。

修治(しゅうじ)は、千九百九年(明治四十二年)六月十三日、青森県北津軽郡金木村(のちの北津軽郡金木町、現青森県五所川原市)に、県下有数の大地主である津島源右衛門、タ子(たね)の六男として生まれた。

両親には子女が十一人居て、修治(しゅうじ)はその十番目の生まれで、修治(しゅうじ)が生まれた時には、既に長兄・次兄は他界していた。

修治(しゅうじ)の父・源右衛門は、木造村の豪農・松木家からの婿養子で、松木家も県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士だった。

津島家の富豪振りは半端な物では無く、津軽地方では「金木の殿様」とも呼ばれていた。

父・津島源右衛門は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、修治(しゅうじ)自身は乳母らによって育てられた。

千九百二十三年(大正十二年)、修治(しゅうじ)が青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)へ入学直前の三月、父・津島源右衛門が死去する。

修治(しゅうじ)が十七歳の頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行して作家を志望するようになる。

官立弘前高等学校文科甲類時代の修治(しゅうじ)は、泉鏡花や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の作品に傾倒すると共に、左翼運動ににも傾倒する。

千九百二十九年(昭和四年)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌・「細胞文芸」を発行すると辻島衆二の名義で作品を発表する。

この頃は他に小菅銀吉または本名・津島修治・名義でも文章を書いていたが、自らの富裕階級の身に悩み、十二月にカルモチン自殺を図っている。

翌・千九百三十年(昭和五年)、修治(しゅうじ)は弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業する。

フランス語を知らぬまま、修治(しゅうじ)はフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学する。

しかし修治(しゅうじ)は、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、実家からの仕送りで有る豪奢(ごうしゃ)な生活を意味するデカダンスを送る。

一方修治(しゅうじ)は、それに対する自己嫌悪・六男坊という修治(しゅうじ)自身の立ち位置もあいまって、マルキシズムに傾倒して行く。

修治(しゅうじ)は、思想自体に本気でのめり込んでいた訳ではないものの当時治安維持法にて取り締まられた共産主義活動に没頭し、講義には殆ど出席しなかった。

同じ頃、修治(しゅうじ)は小説家を目指して作家・井伏鱒二に弟子入りし、この頃から本名・津島修治に変わって太宰治(だざいおさむ)を名乗るようになる。

在籍した東京帝国大学文学部仏文学科の籍は、留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍される。

治(おさむ)は、卒業口頭試問を受けた時、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われた。

しかし、講義に全く出席していなかった治(おさむ)は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。

治(おさむ)は、在学中にカフェの女給で人妻である田部シメ子と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図るも、シメ子だけ死亡し治(おさむ)だけは生き残る事件を起こす。

千九百三十三年(昭和八年)、治(おさむ)は芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)を敬愛しつつ短編・「列車」を「サンデー東奥」に発表する。

同・千九百三十三年(昭和八年)同人誌・「海豹」に参加し、「魚服記」を発表する。

千九百三十五年(昭和十年)に治(おさむ)は、「逆行」を「文藝」に発表する。

初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第一回芥川賞候補となったが作家・石川達三の「蒼氓」が受賞し、治(おさむ)の「逆行」は落選した。

この時選考委員である後のノーベル賞作家・川端康成(かわばたやすなり)から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、治(おさむ)は「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。

その後、治(おさむ)は都新聞社に職を求めるも入社できず、またも自殺未遂事件を起こす。

第一回芥川賞の選考時に治(おさむ)の「逆行」を高く評価していた選考委員の作家・佐藤春夫(さとうはるお)を知り師事する。

第二回芥川賞の受賞を治(おさむ)は期待し、佐藤春夫も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となる。

第三回芥川賞の選考では、治(おさむ)は仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っている。

しかし、過去に候補作となった作家は選考対象から外すと言う規定が設けられ、治(おさむ)は候補にすら成らなかった。

千九百三十六年(昭和十一年)、治(おさむ)は前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集「晩年」を刊行する。

翌千九百三十七年(昭和十二年)、治(おさむ)は内縁の妻・小山初代とカルモチン自殺未遂を起こし一年間筆を絶つ。

千九百三十八年(昭和十三年)、師事する作家・井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ三ヵ月間逗留している。

その井伏鱒二の仲人で甲府市出身の石原美知子と結婚した。

治(おさむ)は甲府市御崎町(現・朝日)に棲家を得て精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表する。

戦中も、治(おさむ)は甲府に在って創作活動を継続、「津軽」、「お伽草紙」などを書き上げ、戦後の千九百四十七年(昭和二十二年年)に没落華族を描いた長編小説「斜陽」が評判を呼び、流行作家となる。

太宰治(だざいおさむ)は、「人間失格」、「桜桃」などを書きあげた後、千九百四十八年(昭和二十三年)六月十三日に玉川上水で、愛人・山崎富栄と入水自殺を遂げた。

大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な世相の中に在って、治(おさむ)は退廃的な生真面目過ぎ、左傾思想などに向き合うも、心の隙間を埋める為か女性関係だけは賑やかだった。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-17 01:05  

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