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堀尾吉晴(ほりおよしはる)

堀尾吉晴(ほりおよしはる)は千五百四十四年(天文十三年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(ほりおやすはる/吉久、泰時)の長男として生まれた。

父・泰晴(やすはる)は尾張国上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。

その後吉晴(よしはる)は、尾張を統一した信長に仕えたが、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。

その後吉晴(よしはる)は秀吉に従って各地を転戦し、千五百六十七年(永禄十年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたと言われている。

千五百七十三年(天正元年)には、吉晴(よしはる)は近江国長浜の内に百石を与えられた。

その後も吉晴(よしはる)は武功を挙げ、播磨国姫路に於いて千五百石、後に丹波国黒江に於いて三千五百石に加増された。

千五百八十二年(天正十年)の備中高松城攻めでは、吉晴(よしはる)は自害した敵将・清水宗治の検死役を務める。

山崎の戦いでは、吉晴(よしはる)は中村一氏(なかむらかずうじ)と共に先手の鉄砲頭として参加している。

吉晴(よしはる)は天王山争奪の際に敵将を討ち取ると言う功績を挙げ、丹波国氷上郡内の黒井城を与えられ、知行六千二百八十四石となる。

千五百八十三年(天正十一年)に吉晴(よしはる)は、若狭国高浜に於いて一万七千石を与えられ大名に列する。

翌千五百八十四年(天正十二年)には、三千石の加増を得て知行二万石とされた。

吉晴(よしはる)は、千五百八十五年(天正十三年)の佐々成政(さっさなりまさ)征伐にも従軍する。

吉晴(よしはる)は、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に四万石を与えられている。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも従軍し、吉晴(よしはる)は正五位下、帯刀先生に叙任された。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも、吉晴(よしはる)は秀次の下で山中城攻めに参加する。

この小田原征伐の役の途中でともに出陣した吉晴嫡子・金助が戦傷死している。

小田原開城後、吉晴(よしはる)はこれらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主十二万石に封じられ、豊臣姓も許された。

この頃吉晴(よしはる)は、秀次・宿老から独立した立場になった為、後の秀次事件にはかろうじて連座していない。

この後吉晴(よしはる)は、秀吉の奥州仕置への反抗である九戸政実(くのへまさざね)の乱にも従軍して功があったと言う。

秀吉の晩年には、吉晴(よしはる)は中村一氏(なかむらかずうじ)や生駒親正(いこまちかまさ)らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、吉晴(よしはる)は東軍に与すも、本戦直前の七月、濃国加賀野井城主・加賀井重望と三河刈谷城主・水野忠重とが酒席で争い、重望が忠重を殺害した。

その場に同席した吉晴(よしはる)は、槍傷十七ヵ所の重傷負うも重望を討った為九月の本戦には参加できなかった。

代わって出陣した次男で世子の忠氏(ただうじ)が戦功を賞され出雲富田二十四万石に加増移封された。

千六百十一年(慶長十六年)、吉晴(よしはる)は松江城を建造し本拠を移したが、間もなく六十八歳で死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-11-10 05:08  

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