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戦国武士の副業

豊臣秀吉の「太閤刀狩」は、専業武士(統治と武力行使を担当)と氏族系百姓(ひゃくしょう)の間に明確な線引きをして、氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主を町人、氏族系の地主を百姓と身分を明確に分けた「身分制度改革」だった。

その豊臣秀吉の「身分制度改革」以前の戦国武士は、副業をしていても当たり前で、それが普通だった。

それらの身分制度は江戸時代を境にそれが確定し、氏族系百姓身分の商業者は町人(商家/商人)と成った。

農業、工業、商業、漁業などの経営は、武士の直接経営から身分の分類で分離されて間接経営に変わり、金銀山などの鉱業経営だけが残った。

江戸時代を境に、農業、工業、商業、漁業などの経営は、武士の直接経営から身分の分類で分離されて間接経営に変わり、金銀山などの鉱業経営だけが残った。

しかしその身分分類の成立以前は、多くの業が武士(有姓氏族)の独占だった。

何故ならば、初期の渡来部族が大くの先端技術を持ち込んで日本列島を征服し、その渡来部族が氏姓(うじかばね)を名乗る支配階級・氏族(うじぞく)に成った事で、先端技術は有姓氏族の独占となって居た。


例えば後に肥後一国を領する黒田藩の成立は、備前国邑久郡の国人領主・黒田重隆(くろだしげたか)に遡(さかのぼ)る。

黒田家は、元々から宇多源氏佐々木六角流黒田氏を自称する武家で、本拠地は畿内に在った。

それが室町期に、「船岡山合戦」のいざこざから足利将軍家の不興を買い、備前国邑久郡に流れ着いて居を構えた。

黒田官兵衛孝高の祖父・黒田重隆(くろだしげたか)は目薬の製造販売(販売は姫路の広峯神社の神官が担当)で財を成して力を着け、郎党を集めて播磨の国人領主に成り上がった。

しかし勘違いして欲しくないのは、黒田重隆(くろだしげたか)は目薬屋から武士に成った訳ではない。

歴史の常識は、時代の経過と伴にその時代時代で変わるものであるから、つまり現代の業種分業の先入観で、この戦国時代の業態を判断して欲しくない。

元々平安期の武士は、神官を始め工業、農業、商業、海運業などの副業を持って居て、鉱業利権は勿論、刀剣の製造や後の銃砲の製造も武士(有姓氏族)の独占だった。

つまり、室町期から戦国期にかけてはまだ、武士とその他の業との区別は余り無かった。

例えば、戦国を大きく遡(さかのぼ)る平安末期の事だが、平清盛は海運業を盛んに行い、海外貿易まで手を染めていた。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)織田信長に仕官させた信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)生駒家は、馬借(ばしゃく)と言う馬の貸し出し業や陸運業を副業にしていた。

また、「美濃の国取り物語」で有名な油屋の斉藤家の話しも黒田家の目薬屋と似ているので紹介する。

下克上で「美濃一国の国主と成った」と言われる斉藤道三(さいとうどうさん)の父は、天皇の御所を守る「北面の武士」の家から妙覚寺に出家した松波基宗の子・松波峯丸(法蓮坊)である。

その松波峯丸(法蓮坊)が、「山崎屋庄五郎」と名乗り京都周辺で油屋を営み、財を成して美濃国の国主・土岐家の重臣・西村家の家督を継ぎ、西村新左衛門尉を名乗る。

それを脚ががりにして息子の道三の代には最後には主君・土岐頼芸(ときよりのり)を武力を持って追放し美濃一国を手に入れた。

この斉藤道三の国取り物語を、「道三が一代で油屋から国主に成り上がった」とする物語も捏造(ねつぞう)で、正しくは親子二代の国取りである。


あらゆる業種に副業を持っていた氏族が、室町期から江戸期に到る過程で武士との分業化が進み、商業を選択して町屋の大商人(豪商)になる者、帰農して農村部の村役や庄屋(江戸期)におさまる者が現れ身分制度が確立した。

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by mmcjiyodan | 2014-01-09 17:30  

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