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平塚常次郎(ひらつかつねじろう)

大正時代に成ると、近代化しつつある日本は海洋進出もすすめていた。

北洋漁業の先駆者として知られる平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、千八百八十一年(明治十四年)北海道函館に生まれる。

平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、安土桃山時代の武将・平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔とされる。

平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、札幌露清語学校でロシア語を学んだ。

常次郎(つねじろう)は北洋の漁場開発を志し、ロシア領カムチャツカ半島に渡ってサケ・マスの漁場調査をおこなう。

千九百五年(明治三十八)、日本はポーツマス条約によってロシア領沿岸での漁業権を獲得する。

常次郎(つねじろう)は堤清六(現・株式会社ニチロの創業者)とともに新潟市に堤商会を設立し、ロシア領海内で操業を開始する。

常次郎(つねじろう)達は、カムチャツカ半島沿岸に工場を建設し、サケ・マス缶詰の輸出にも成功した。

千九百二十一年(大正十年)、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の常務となり、同社及び太平洋漁業、千島水産などで社長を歴任、北洋漁業の覇権を手中に収める。

しかしその常次郎(つねじろう)の業績も、第二次世界大戦の敗戦により、日魯漁業(現ニチロ)は海外資産(施設・漁場)の全てを失った。

千九百四十六年(昭和二十一年)、常次郎(つねじろう)は第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から衆議院議員に初当選する。

常次郎(つねじろう)は名門・河野氏出自の河野一郎(こうのいちろう)と行動を共にする。

政界に身を置いた常次郎(つねじろう)は、第一次吉田内閣で運輸大臣を務め(北海道出身者として初の入閣)たが、翌千九百四十七年(昭和二十二年)、GHQにより公職追放処分を受ける。

千九百五十一年(昭和二十六年)追放解除後、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の社長に再度就任する。

千九百五十五年の第二十七回衆議院議員総選挙に、常次郎(つねじろう)は北海道三区から日本民主党公認で立候補し当選、政界にも復帰した。

千九百五十八年(昭和三十三年)には、常次郎(つねじろう)は大日本水産会会長として日ソ漁業交渉代表団団長を務め、日中漁業交渉にも携わった。

千九百七十四年(昭和四十九年)、常次郎(つねじろう)は長寿を全うし九十三歳で没した。

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by mmcjiyodan | 2014-03-30 12:13  

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