部下を競(きそ)わせる

品格を持たない指導者が陥る手法に「部下を競(きそ)わせる」がある。

「部下を競(きそ)わせる」は部下操縦手法としては有効な手段だが、それは部下に呆れられる「品が無い手法」である。

織田信長豊臣秀吉も、この世の中で有効とされる手法・「部下を競(きそ)わせる」を使って知性優秀な部下に離反された。

勿論、競わせた挙句に「俺がやらせた」と言い放って、本音では成果を一人占めした信長亡き後の織田家家臣は内紛状態で、後継者、次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ)と三男・織田信孝(おだのぶたか)には、本心からの味方は無いに等しかった。

正直、出世に関して言えば、本来の人間の能力には大した差は無い。

強(し)いて言えば、事を教わる人材に恵まれ、かつ、担担(かつ)いだお館(親方・首領)の出世能力に引き立てられるかどうかの運不運かも知れない。

しかし良く考えて観ると、お館(親方・首領)の出世には、担(かつ)がれた家臣(部下)の手助けが在っての事で、つまり成果は相互の力の結集である。

それ故に、「俺がやらせた」は、お館(親方・首領)の品格として「大きなうぬぼれ」ではないのか?


豊臣家の恩顧大名にしても、若い頃から面倒を見てくれた正室・北政所「おね(ねね)」の内助の功には感謝しても、豊臣後継の秀頼やその母・淀君(茶々)に対しては何の恩義も無かった。

企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて「部下を競(きそ)わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。

この【左脳域】志向である「部下を競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき憎悪の感性である。

こうした状況下に組織が陥(おちい)ると、結果、内部での足の引っ張り合いが始まり組織としての結束は崩れる。

徳川家康は当時の武将としては珍しく、この「部下を競わせる」の手法を取らなかった。

それでも徳川家臣団は自ら競って忠勤に励んだ。

徳川家康と三河家臣団の結び付きは、首領(武家の棟梁)である家康の家臣に対する気配り思い遣りが前提に在っての新しい信頼関係だった。

三方ヶ原合戦」に破れた徳川家康は、命を賭して自分を助けた家臣団の恩を生涯の道しるべにしていたからである。

実は徳川幕府成立以前の武士(氏族)には、江戸期に於ける「武士道の精神」などはなく、下克上(げこくじょう)の世界だった。

それ故、この「武士道の精神」もって「日本人の心」と言い張るのは、いささか格好の付け過ぎである。

この武士道幻想を利用して軍事政権が国民を戦地に送った大戦が、ほんの一世代前に在った事を忘れてはならない。

それに、この武士道の精神の発祥条件(家康の心情)から考えると、一方的な忠勤思想(忠誠心)は、既に家康以後の権力者によって歪曲されたものである。

本来相互に信頼が通う為には、一方的な忠勤思想(忠誠心)を押し付けるものでは在り得ない。


ついでの話しだが、「馬鹿にされてたまるか」と言う根性が「人を強くする」と世の中では解釈されている。

だが、これは大きな間違いで、冷徹に醒(さ)めて「馬鹿にされようが、そんな事は気にしない」の方が遥かに強い。

物事の判断には、過去の経験がものを言う事が多い。

つまり机の上の知識だけでは「個人の気持ち」と言う希望が混ざって、それらの体験的判断はできない。

そこに付け入る隙が出来るのだが、「馬鹿にされてたまるか」は極小(ごくちい)さな根性で、そんな事に気を遣っていては大成など望むべくも無い。

参考小論
ロックイン効果の心理理論】に飛ぶ。
国家の品格・武士道の国・日本のまやかし】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2014-09-22 23:40 | Comments(0)  

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