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杉文(すぎふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)

吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家である。

家禄二十六石の萩(長州毛利)藩士・杉家の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州毛利藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。


杉家次男・吉田松陰(よしだしょういん)は松下村塾を主宰していたが、その杉家姉妹の中に、四女・杉文(すぎふみ・あや)が居た。

千八百三十年に杉家の次男・杉寅之助として生まれた吉田松陰(よしだしょういん)の十二歳年下の末の妹として、杉文(すぎふみ・あや/楫取美和子)は千八百四十二年に誕生する。

杉百合之助(常道)の四女として生まれた杉文(すぎふみ・あや)は、叔父の玉木文之進(松下村塾の創立者)が自分の名から「文」の一字をとって与えた。

二兄の寅次郎は、すでに吉田家へ養子に出てその家督を継ぎ、吉田寅次郎(松陰)を名乗っていた。


千八百五十七年(安政四年)、文(あや)は門弟・久坂玄瑞(くさかげんずい)の才を高く評価する寅次郎(松陰)の強い勧めが在って結婚する。

玄瑞(げんずい)十八歳、文(ふみ・あや)十五歳、夫・玄瑞(げんずい)が禁門の変に敗れて自害した為、二人の婚姻期間は七年だった。

文(あや・ふみ)は秀才・久坂玄瑞(くさかげんずい)に嫁いだのだが、その玄瑞(げんずい)が禁門の変の折に自害、文(あや・ふみ)は未亡人となる。

後に文(ふみ・あや)は、姉・寿の嫁ぎ先小田村伊之助(楫取素彦)と再婚して楫取美和子(かとりみわこ)を名乗る事になる。


未亡人・杉文(すぎふみ・あや)は萩(長州毛利)藩世子・毛利定広の正室・安子の女中、及びその長男・興丸の守役を勤めて居り、美和の名もこの頃から使い始めている。

小田村伊之助(楫取素彦)のもとへ嫁いだ次女の姉・寿の縁で、伊之助は二十二歳にして未亡人となった杉文(すぎあや・ふみ)の境遇を憐れみ、その身を案じていた。

そんな折、姉・寿が四十三歳で死去した為、母・瀧子の勧めもあり、杉美和(杉文/すぎあや・ふみ)は群馬県令を務めて居た伊之助(楫取素彦/慶応三年九月改名)と再婚、姉の子二人の子育ても引き受ける。

楫取素彦(かとりもとひこ)明治維新政府の高級官僚と成り、後に高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任した。

楫取素彦(かとりもとひこ)の妻と成った楫取美和子(かとりみわこ)は、夫・素彦(もとひこ)が明治二十年に男爵を授けられ男爵夫人となる。

夫・素彦(もとひこ)が大正元年八月、山口県の三田尻(現・防府市)にて八十四歳で死去後も美和子(みわこ)は大正十年まで生き、山口県防府町にて死去し同じ墓で眠っている。

文(ふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)には、久坂玄瑞(くさかげんずい)、楫取素彦(かとりもとひこ)のいずれの間にも子はいない。

杉文(すぎふみ・あや)の氏姓について、江戸幕府の時代の嫁は実家の姓を名乗る夫婦別姓だったから、久坂玄瑞(くさかげんずい)と結婚した頃はまだ杉文(すぎふみ・あや)名乗りだった。
明治維新後は夫婦同姓が定められ、楫取素彦(かとりもとひこ/小田村伊之助)と再婚した時は楫取姓を名乗る楫取美和子(かとりみわこ)だった。

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by mmcjiyodan | 2014-10-03 17:57  

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