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吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)

吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)は、久坂玄瑞高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される。

しかし稔麿(としまろ)は、倒幕派・勤皇浪士と佐幕派・新撰組の衝突の中で、才能を発揮する場も得ないままに若くして命を落としている。


吉田稔麿(よしだとしまろ)は、千八百四十一年(天保十二年)、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子・栄太郎として生まれる。

栄太郎の生家は師・松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

栄太郎は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。

栄太郎は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。

また、栄太郎は師・松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、松陰の松下村塾に十六歳で入門し、兵学を究める。

師・松陰は、栄太郎を高く評価した評を残している。

千八百五十八年(安政五年)に松陰に下獄の命が下されると、栄太郎は親族一門を守るために師の元を一時離れる。

翌年、師・松陰が江戸に送られる際には、栄太郎は隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。

同千八百六十年(万延元年)十月に栄太郎が脱藩し、身軽になった栄太郎は、その年十月の松陰の慰霊祭に初めて参加している。

しかし二年後の千八百六十二年(文久二年)に、栄太郎は脱藩の罪を許される。

千八百六十三年(文久三年)六月、栄太郎は高杉晋作の創設した奇兵隊に参加し、七月に屠勇隊を創設する。

八月の朝陽丸事件では、栄太郎は烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。

またこの年に栄太郎は稔麿(としまろ)と改名し、吉田稔麿(よしだとしまろ)を名乗った。

千八百六十四年(元治元年)六月五日の池田屋事件では、稔麿(としまろ)も出席していたが、一度屯所に戻る為に席を外す。

しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に二十四歳の若さで討ち死した。

最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にしたとされる説もある。

また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。

後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)が「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったとされる。

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by mmcjiyodan | 2014-10-10 23:26  

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