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入江九一(いりえくいち)

入江九一(いりえくいち)は、千八百三十七年(天保八年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれた。

九一(くいち)は、千八百五十八年(安政五年)、松下村塾に二十一歳で入門して吉田松陰(よしだしょういん)に学ぶ。

九一(くいち)は松陰から高く評価され久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)吉田稔麿(よしだとしまろ)の松陰門下の三秀に加えて松門四天王の一人に数えられた。

後に明治の元勲となる同じ松陰門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)の最初の妻・入江すみ子は九一(くいち)の妹である。

同千八百五十八年(安政五年)、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝(まなべあきふさ)暗殺計画を企んだ。

この時門下の三秀の高杉晋作と久坂玄瑞、吉田稔麿らは猛反対したが九一(くいち)と弟・入江和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し計画に加担する。

九一(くいち)は、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国の為に死ねる男児である」と、心意気を高く評価されている。

そのため、師・松陰が井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。

しかし、幕府に察知されて弟と共に投獄されてしまった。

その後釈放されて千八百六十三年(文久三年)、足軽から武士の身分に取り立てられ、京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉晋作の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。

翌千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、九一(くいち)は久坂玄瑞らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。

九一(くいち)は何とか脱出しようと図ったが敵の槍を受けて目を負傷し、その場で切腹して二十八歳で果てた。

松陰門下で松門四天王と呼ばれた他の久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)は、いずれも勤皇の志半ばで無念の死を遂げている。

松門四天王の四人目・入江九一(いりえくいち)もまた、勤皇の志士としてのその後の活動が期待されていたが、志半ばで無念の死を遂げた。

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by mmcjiyodan | 2014-10-12 11:04  

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