大髭禁止令(おおひげきんしれい)

江戸時代の徳川幕府からの法令に「大髭禁止令(おおひげきんしれい)」がある。

実は徳川幕府成立初期まで、古来からの伝統で武士(氏族)のほぼ百パーセントが髭を生やしていた。

従って平安時代の武士から戦国・安土桃山時代、相手を威嚇する為に大髭(おおひげ)は武士の象徴でも在った。

そして千六百七十年(寛文十年)、四代将軍・徳川家綱の大髭禁止令(おおひげきんしれい)以前では、髭の無い武将などまず存在しない。

つまり時代劇で、髭の無い平清盛源頼朝義経織田信長豊臣秀吉徳川家康に髭が無いのは時代考証上大変な間違いである。


徳川幕府は、初期の頃までは宦官(かんがん/去勢を施された官吏)に対する男性の象徴である古来からの伝統の口髭・顎鬚に寛容であった。

ところが、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした「元和偃武(げんなえんぶ/戦いをやめ平和の到来)」以降は戦乱がなくなる天下泰平となる。。

当然ながら、戦闘要員としての武官の仕事がなくなり事実上無役の旗本御家人(ごけにん)やその庶子が激増する。

その不満のはけ口として、旗本・御家人の無頼・かぶきもの行為が横行し、侠客まがいの「博打」や「辻斬り」など江戸の治安が非常に乱れた。

当時の将軍が髭嫌いだった事が発端になったとの説も有るが、その取り締まり一環として、武骨の象徴たる「髭」もその対象になり千六百二十三年(元和九年)に第一の禁令が発令せらる。

この禁令では、周囲を威嚇する風体、大額大なで付、大剃さげ、又は下鬚、幷大刀(あわせたち)、大脇差、朱鞘、大鐔、大角鐔停(おおかどつばとめ)禁せらる。

台徳院殿御実紀巻五十九に因(よ)ると、「もし違犯のものは繋獄せしめ、其主よりは過料銀二枚出さしむべしとなり。」となる。


さらに第二の禁令が、千六百四十五年(正保二年)に出る。

大猷院殿御実紀巻六十一因(よ)ると、此日命ぜらるるは、刀は二尺九寸、脇差は壱尺八寸を限とすべし。

また「大鍔、大角鍔、朱又黄の鞘、又大撫附、大額、大そりさげ、大髯、さきざき停禁せられしかど、頃日いささかみゆれば再び触示さるるとなり」と禁令命ぜらるる。

ただしここまでは、当時の前述の「かぶきもの」「男たて等」と呼ばれた異様な風俗行動を禁止したものであって、ヒゲ一般を厳禁したものではなかった。

しかし周囲を威嚇する風体の無役旗本・御家人の無頼所業は納まらず、四代将軍・家綱の時代、千六百七十年(寛文十年)に幕府が大髭を禁止した「大髭禁止令」が出るに至る。

大髭と言うのは、「頬ならびに口の上下に髭を長く生やす事を指した」とされ、貴賤上下をおしなべて厳しくこれを禁じた。

しかし顎の先にひげを生やすことだけは比較的大目に見られていたものか、医者・山伏・神官・人相見などには往々にして顎鬚をたくわえる者があった

この場合の医者は、町医者ではなく藩医などの禄を得る者と山伏・神官・人相見などと、還暦を過ぎた隠居老人を除いては、厳禁される事になった。

特に武家に関しては厳格でこれ以降、額の月代と口髭・顎鬚をツルツルに剃ることが正装とされ、幕末の志士の間で月代を崩す髪型が流行るまでは概ね守られた。

大名に関してはさらに厳格で、この「大髭禁止令」以降の大名で江戸時代にヒゲの生えた肖像画が残っているのは、第十五代の将軍・徳川慶喜の実父・徳川斉昭(とくがわなりあき)だけである。

徳川斉昭(とくがわなりあき)は江戸時代後期の御三家大名・水戸藩主で、幕府の権威も落日に在った為に、「大髭禁止令」の無視が可能だったのかも知れない。

従って千六百七十年(寛文十年)以降~明治維新までの時代劇に髭の大名や武士が登場するのも、時代考証上は原則在りえない。

詳しくは、関連小論・【大髭禁止令(おおひげきんしれい)と時代考証】を参照。

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by mmcjiyodan | 2014-11-18 01:36 | Comments(0)  

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