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咸臨丸(かんりんまる)

咸臨丸(かんりんまる)は、勝海舟(かつかいしゅう)が教えた海軍伝習所生(海軍学校生)の操船で、初めて大洋を渡った船である。

勝海舟(かつかいしゅう)の出世の糸口は、ペリーが黒船船団を率いて来航し、「開国」を要求した事にある。

「開国」の問題は内政と違う深刻な外交問題で、江戸幕府老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は幕府の決断のみで鎖国を破る事に慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。

海防意見書を提出した勝海舟(かつかいしゅう)の意見書は阿部正弘(あべまさひろ)の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の役入りを果たした。

幕府が洋式海軍技術・操練術移入の目的でオランダ人を招き長崎に「海軍伝習所(海軍学校)」を開いた為、勝海舟(かつかいしゅう)はその「海軍伝習所(海軍学校)」に入門した。

蘭語が良く出来た為に教監も兼ね、オランダ人教官と伝習生の連絡役も果たす内に海軍伝習所での指導者的地位を確立して、足掛け五年間を長崎で過ごし、その間に坂本龍馬も弟子にしている。

勝海舟(かつかいしゅう)がこの間に学んだ洋式海軍技術・操練術は、幕府随一のものと成って居た。


万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)の派遣が決まると、遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。

その遣米使節に軍艦奉行・水野忠徳(みずのただのり)の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣する事にする。

その随行艦・咸臨丸の司令官には、軍艦奉行並で在った木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)を軍艦奉行に昇進させ命じた。

軍艦奉行・木村喜毅は、咸臨丸乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟(かつかいしゅう)をはじめとする海軍伝習所出身者で固め、海舟(かいしゅう)に海外渡航のチャンスがめぐって来た。

この遣米使節(けんべいしせつ)は、サンフランシスコ滞在中に元号が「万延」に変わり、「万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)」と称されている。


千八百六十年(安政七年=万延元年)、幕末の空気が漂う中、江戸徳川幕府は万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)を派遣する。

この航海中に、日本の元号が安政から万延に改元される。

派遣された咸臨丸が、太平洋を渡り無事サンフランシスコに到達し後無事帰国したのは、水夫五十名の内三十五人が瀬戸内海塩飽島に本拠地を置く、操船技術に卓越した塩飽水軍(しわくすいぐん)の末裔だった。

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by mmcjiyodan | 2015-01-06 17:00  

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