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松尾芭蕉(まつおばしょう)

松尾芭蕉(まつおばしょう) は、江戸時代前期の 俳諧の連歌を職業とする俳諧師(はいかいし)である。

千六百四十四年(寛永二十一年)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない。

芭蕉(ばしょう)の出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の二説がある。

これは芭蕉(ばしょう)の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。

芭蕉(ばしょう)は、 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる。

松尾忠右衛門・宗房=芭蕉(ばしょう)には、兄・松尾命清の他に姉一人と妹三人がいた。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族で、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった。

千六百五十六年(明暦二年)、十三歳の時に父・松尾与左衛門が死去する。

兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。

異説も多いが、宗房=芭蕉(ばしょう)は千六百六十二年(寛文二年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・上野の城代・藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ/俳号は蝉吟)に仕えた。

その宗房=芭蕉(ばしょう)の仕事は、「厨房役か料理人だったらしい」と伝わっているが、「稚児小姓として仕えた」とする説も有力である。

当時の武門は、「男色を賛美した習俗が極普通だった」と言われるので充分可能性は在った。


芭蕉(ばしょう)の幼名は金作である。

通称は甚七郎、次いで甚四郎、名は松尾忠右衛門宗房を名乗る。

歌人俳人・北村季吟(きたむらきぎん)門下で、俳号としては初め実名・宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。

宗房=芭蕉(ばしょう)は、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

諸説あるが、千六百七十五年(延宝三年)初頭、宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸へ下った。

宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸では俳号・「桃青」を用い、多くの支援者を得て、神田川の分水工事の人足の帳簿づけなどをしながら生活の基盤を固め、江戸の職業俳諧師としての地位を築いてゆく。

やがて桃青=芭蕉(ばしょう)は、俳諧師の宗匠の証である歳旦帳を持ち、江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。


千六百八十九年五月十六日(元禄二年三月二十七日)、芭蕉(ばしょう)が弟子の河合曾良(かわいそら)を伴い、江戸を立つ。

芭蕉(ばしょう)が東北地方、北陸地方を巡り、中部地方・岐阜県の大垣まで旅した紀行文が「おくのほそ道」である。

下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、芭蕉(ばしょう)にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。


「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」・・岩手県平泉町

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」・・山形県・立石寺

「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」 ・・山形県大石田町

「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」・・新潟県出雲崎町


この旅で芭蕉(ばしょう)は、訪れた各地に多くの門人を獲得する。

特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。

また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。

芭蕉(ばしょう)は五月下旬に中部地方・大垣に着き、約五ヶ月六百里(約2400km)の旅を終えた。

その後芭蕉(ばしょう)は、九月六日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。

十二月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした。


千六百九十四年(元禄七年)五月、芭蕉(ばしょう)は愛人・寿貞尼(じゅていに)の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。

途中大井川の増水で島田に足止めを食らうも、五月二十八日には伊賀上野に到着した。

その後、湖南(滋賀県湖南市)や京都へ行き、七月には伊賀上野へ戻った。

同千六百九十四年(元禄七年)六月二日、江戸深川の芭蕉庵にて愛人・寿貞尼(じゅていに)が死去する。

芭蕉の甥・猪兵衛が、寿貞(じゅてい)の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けた。

九月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。

大坂行きの目的は、門人・大坂蕉門の重鎮の之道(しどう)と近江蕉門の珍碩(ちんせき)の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。

当初は若い珍碩(ちんせき)の家に留まり諭したが、珍碩(ちんせき)は受け入れず失踪してしまう。

この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉(ばしょう)は大坂に向かい之道(しどう)の家に移ったものの十日夜に発熱と頭痛を訴えた。

二十日には回復して俳席にも現れたが、二十九日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。

十月五日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受ける。

八日、「病中吟」と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ。


伊賀と言えば、「幕府御庭番服部家」など伊賀流忍者の里で、その出身地から芭蕉(ばしょう)には異説が在る。

伊賀国土豪一族出身の松尾忠右衛門宗房が俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)の実名であり、諸国を旅した事から「諸国巡検の幕府隠密説」が在る。

まず、芭蕉(ばしょう)の母・ 梅 の出身も、伊賀流忍術の祖とされる百地(桃地)氏だった。

また、松尾宗房が十八歳で最初に仕えた藤堂新七郎の息子だが、藤堂新七郎が保田采女(藤堂采女)の一族で、采女が服部半蔵(はっとりはんぞう)の従兄弟だった為である。

とは言え、俳諧師(はいかいし)・芭蕉(ばしょう)が幕府隠密だった証拠はない。

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by mmcjiyodan | 2015-04-20 19:24  

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