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陸奥宗光(むつむねみつ)

陸奥宗光(むつむねみつ)は、紀州藩々士から勤皇志士(尊皇攘夷運動/そんのうじょういうんどう)として行動し、維新後は外交官、政治家として日本の近代化に関わった。

宗光(むねみつ)は官僚として、明治初期に行われた版籍奉還廃藩置県徴兵令地租改正など国策に大きな影響を与えた。

また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤(博文)内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。


宗光(むねみつ)は、千八百四十四年(天保十五年)八月二十日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。

宗光(むねみつ)の幼名は牛麿(うしまろ)と名付けられ、後、伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。

宗光(むねみつ)の生家は、奥州伊達家・伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられる。

だが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家(後に紀州伊達氏)の子孫である。

国学者・歴史家としても知られていた父・宗広の影響で、宗光(むねみつ)は尊王攘夷思想を持つようになる。

父・宗広は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であった。

だが、千八百五十二年、宗光(むねみつ)が八歳の時に藩内の政争に敗れて失脚した為、一家には困苦と窮乏の時を過ごした。


千八百五十八年(安政五年)、宗光(むねみつ)は江戸に出て儒学者・安井息軒(やすいそっけん)に師事するも、遊郭・吉原通いが露見し破門されてしまう。

その後は儒学者・水本成美に学び、土佐藩坂本龍馬長州藩桂小五郎(木戸孝允)伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。


千八百六十三年(文久三年)、宗光(むねみつ)は坂本龍馬(さかもとりょうま)と伴に勝海舟(かつかいしゅう)の幕府・神戸海軍操練所に入る。

千八百六十七年(慶応三年)には坂本龍馬(さかもとりょうま)の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど龍馬(りょうま)と行動を伴にした。

勝海舟(かつかいしゅう)と龍馬(りょうま)の知遇を得た宗光(むねみつ)は、その才幹を発揮する。

龍馬(りょうま)をして「(刀を)二本差さなくても食って行けるのは、俺と陸奥宗光(むつむねみつ)だけだ」と言わしめるほどだった。

宗光(むねみつ)もまた龍馬(りょうま)を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

明治維新後、宗光(むねみつ)は岩倉具視(いわくらともみ)の推挙により、千八百六十八年に外国事務局御用係に採用される。

戊辰戦争に際し、宗光(むねみつ)は局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功する。

その際、ストーンウォール号の引き渡しに関し未払金十万両が在ったがまだ財政基盤の脆弱だった新政府には払えなかった。

この資金を、宗光(むねみつ)が大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受ける事に成功する。

宗光(むねみつ)は、千八百六十九年・兵庫県知事、千八百七十一年・神奈川県令、千八百七十二年・大蔵省・地租改正・租税頭(局長/そぜいのかみ)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、故郷・和歌山に帰った。

千八百七十二年(明治五年)に蓮子夫人が亡くなり、宗光(むねみつ)は翌千八百七十三年(明治六年)に亮子と結婚している。

千八百七十五年(明治八年)、宗光(むねみつ)は大阪会議で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。


千八百七十七年(明治十年)、西郷隆盛を首魁に担ぎ出しての西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀った。

宗光(むねみつ)は、その土佐派と連絡を取り合っていた。

翌千八百七十八年(明治十一年)にこの土佐派との事が発覚し、宗光(むねみつ)は除族のうえ禁錮五年の刑を受け、投獄された。


山形監獄に収容された宗光(むねみつ)は、せっせと妻・亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。

山形監獄が火災に会った時、宗光(むねみつ)焼死の誤報が流れたが、誤報である事が解かる。

千八百七十八年(明治十一年)に伊藤博文(いとうひろぶみ)が手を尽くして宗光(むねみつ)を当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。

出獄の後の千八百八十三年(明治十六年)にベンサムの「Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)」は「利学正宗」の名で刊行されている。


千八百八十三年(明治十六年)一月、宗光(むねみつ)は特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。

千八百八十四年(明治十七年)にロンドンに到着した宗光(むねみつ)は、西洋近代社会の仕組みを知る為に猛勉強した。

ロンドンで陸奥が書いたノートが今も七冊残されている。

内閣制度の仕組み、議会運営など、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を、宗光(むねみつ)は盛んに吸収した跡が観られる。

また、宗光(むねみつ)はウィーンではシュタインの国家学を学んだ。


その後、宗光(むねみつ)は第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任する。

千八百九十四年(明治二十七年)、宗光(むねみつ)はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。

以後、宗光(むねみつ)はアメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。

宗光(むねみつ)はが外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた十五ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

同千八百九十四年(明治二十七年)八月、陸奥宗光(むつむねみつ)は子爵を叙爵する。


一方、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)は同千八百九十四年(明治二十七年)五月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると「清」の出兵に対抗して派兵する。

七月二十三日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、二十五日には豊島沖海戦により日清戦争を開始する。

イギリス、ロシアの中立化にも成功した。

この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と宗光(むねみつ)が気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。


戦勝後、宗光(むねみつ)は伊藤博文とともに全権として千八百九十五年(明治二十八年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。

しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を「清」に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。

宗光(むねみつ)は日清戦争の功により、伯爵に陞爵(しょうしゃく/ランクアップ)する。


宗光(むねみつ)はこれ以前より肺結核を患っていた。

三国干渉の外圧が到来した時、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた宗光(むねみつ)の病床においてで在った。

千八百九十六年(明治二十九年)、宗光(むねみつ)は外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。

この間に宗光(むねみつ)は、雑誌・「世界之日本」を発刊している。

千八百九十七年(明治三十年)八月二十四日、宗光(むねみつ)は肺結核の為、西ヶ原の陸奥邸で、五十三歳で死去した。


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by mmcjiyodan | 2015-06-18 02:16  

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