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箸墓古墳(はしはかこふん)

箸墓古墳(はしはかこふん)は、奈良県桜井市に所在する纒向古墳群 (まきむくこふんぐん)の中でもひときは目立つ規模(前方後円墳中最大)を持っている。

箸墓古墳(はしはかこふん)は、最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。

測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていた事が分かる。

奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅十メートルの周壕とさらにその外側に幅十五メートル以上の外堤が存在していた事が確認されている。

巨大な前方後円墳・箸墓古墳(はしはかこふん)が、その最古の時期から周壕を持つ事が分かった。

陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅十メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、箸墓古墳(はしはかこふん)が古墳時代前期初頭の築造である事が確定した。


また年代測定で、箸墓古墳(はしはかこふん)の築造年代が卑弥呼の没年(二百四十八年から遠くない頃)に近い事から、「卑弥呼の墓ではないか」と言う説が浮上している。

その根拠として、魏の使者張政が詔書、黄幢をもって来倭し、 難升米がこれを拝受し魏の告諭を受けたのち、「卑弥呼以って死す」とある。

その魏書に依り、卑弥呼の死亡時期が二百四十七年の年か、翌二百四十八年頃亡くなったのは確実と思われる事が説の根拠である。

しかしながら、「卑弥呼の墓」は、数多くある諸説の一つに過ぎない。

なぜなら、卑弥呼の没年と箸墓古墳築造年代が重なる以外に証明が出来ないからだ。


そもそも論から言わしてもらえば、卑弥呼は古事記日本書紀は勿論の事、日本の古文書にはまったく記載が無く、他国の正史である魏書(全三十巻)の「東夷伝中の倭人の条(通称・魏志倭人伝)」に記載されているのみの存在で、卑弥呼の正体さえ明確でない

明確でないのに頭から卑弥呼の存在を肯定した上で、「卑弥呼の墓を見つけた」は学者にあるまじき強引な発想である。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-06-24 17:06  

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