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長崎原爆投下(ながさきげんばくとうか)

長崎原爆投下(ながさきげんばくとうか)とは、第二次世界大戦末期の千九百四十五年年(昭和二十年)八月九日午前十一時二分に、米軍が日本の長崎市に対して投下した原子爆弾の事を言う。

この投下は、広島原爆投下(ひろしまげんばくとうか)に次いで実戦で使われた人類史上二発目の核兵器である。


八月六日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した。

その夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われる為にその指揮を執る事を命じられる。

その目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市である事を告げられた。

その時に指示された戦術は、一機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで三機のB-29が目標都市上空に侵入すると言うものであった。

そして出撃機は、合計六機であった。

この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストで在ったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。

これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すと言う手間を省く為、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーと言うニックネームの機となった。

ボックスカーには、スウィーニー少佐をはじめとする乗務員十名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の三名が搭乗した。


先行していた気象観測機・エノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できると報告が来る。

ラッギン・ドラゴンからは、長崎市は朝靄が掛かっており曇っているが、雲量は十分の二であるとの報告があった。

硫黄島上空を経て、午前七時四十五分に屋久島上空の合流地点に達し、ボックスカーは計測機のグレート・アーティストとは合流できた。

だが、誤って高度一万二千mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは合流できなかった。

ボックスカーは四十分間合流を試みたが、時間経過後、スウィーニー少佐はやむなく二機編隊で作戦を続行する決断をした。

午前九時四十分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、九時四十四分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達する。

しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙の為に、目視による投下目標確認に失敗する。

この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、「八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ七km)の残煙と靄だ」と言われる。

米軍の報告書にも、小倉市上空の状況について「雲」ではなく「煙」との記述が見られ、「煙」には信ぴょう性がある。

この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している。

その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度三度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗し、この間およそ四十五分間もロスしていた。

この小倉上空での三回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。

その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第五十九戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第二百三航空隊の零式艦上戦闘機十機が緊急発進してきた事も確認された。

こうした状況下で、機長・スウィーニー少佐は、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前十時三十分頃、小倉市上空を離脱した。


ボックスカーが長崎に向かう途中、トラブルが発生した。

計測機・グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。

直後、「チャック! どこにいる?」と言う、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。

結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミスし、危うく空中衝突をするところであった。

長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していた。

だが、その報告からかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。

ボックスカーは小倉を離れて約二十分後、長崎県上空へ侵入、午前十時五十分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度千八百mから二千四百mの間が、八十~九十%の積雲で覆われていた。

ボックスカーは補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。

スウィーニー機長は、目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニー機長に促(うなが)してきた。

命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。

爆撃手カーミット・ビーハン大尉は「街が見える!」・・「Tally ho!雲の切れ間に第二目標発見!」と大声で叫んだ。

スウィーニー機長は、直ちに自動操縦に切り替えてビーハン大尉に操縦を渡した。

ビーハン大尉は、工業地帯を臨機目標として、高度九千mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。

ファットマンは放物線を描きながら落下、約一分後の午前十一時二分、長崎市街中心部から約三kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度五百mプラスマイナス十mで炸裂した。

ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避ける為北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。

爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温などを計測する三個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。

これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村(12.5km)、江の浦村(13.3km)に落下した。

ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。


この一発の兵器により当時の長崎市の人口二十四万人(推定)のうち約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

この長崎での核爆発被害の詳細は余りにも残酷なので、ここでは記述を控えさせてもらう。


そこで、この核爆弾投下に対する米国民の解釈が問題なのである。

例えば、八月六日の広島原爆投下から七十年経った現在でも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。

何故なら戦後の米国内教育が、長期に渡り「広島への原爆投下は、戦争終結の為に正しかった」と一貫して居たからだ。

これはもぅ各国の為政者が、自分達の為に創る「お定まりの創作神話」みたいな偽りの歴史例である。

しかしその広島原爆投下の現実は、一瞬にして地方の大都市を破壊し、ほとんどが非戦闘員だった十四万人強の人々を無差別に殺戮している。

広島被爆から三日後、八月九日に再び長崎に原爆が投下され、またも無差別に約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊している。

また、この二発の原爆から生き延びた被爆者は、永い事悲惨な原爆症に苦しめられる生涯を送る事に成った。

それでも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。

つまりこう言う為政者を正当化する「創作神話」は、いつの世にもどこの国でもある事だが、その「為政者の創作神話」が必ずしも正しく無い現実を、人々は知らねば成らない。

詳しくは、小論【広島・長崎 原爆被爆概略史】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-08-08 15:27  

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