ポツダム宣言
ポツダム宣言(ポツダムせんげん)の、正式名称は「日本への降伏要求の最終宣言」と言う。
ナチス・ドイツ降伏後の千九百四十五年(昭和二十年)七月十七日から八月二日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の三ヵ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた。
三ヵ国の首脳は、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンだった。
ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石(しょうかいせき)国民政府主席の共同声明として発表されたものである。
このポツダム宣言は、宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。
英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかった為、トルーマンが自身を含めた三人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得た)。
宣言を発した各国の名をとって、「米英中三国共同宣言」とも言う。
ソビエト連邦は後から加わり追認した。
他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本はこのポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。
千九百四十五年(昭和二十年)八月十四日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告する。
翌八月十五日に、「玉音放送」をもって国民に発表された。
正式な降伏調印は九月二日で、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で行われた。
日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。
これにより、宣言は始めて外交文書として固定された。
詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。
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