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真田昌幸(さなだまさゆき)・上田神川の合戦

戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死する。

すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸(さなだまさゆき)は織田信長に恭順した。

つまり、真田信繁(幸村)の祖父にあたる幸隆や叔父達、父・昌幸も、上杉謙信や 武田信玄が一目置く武将だった。

その後、本能寺の変明智光秀に反逆された織田信長が横死する。

父・真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に果敢抵抗した事である。

昌幸(まさゆき)は徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。


最初の徳川対真田の戦いは、徳川軍敗戦と成った【上田・神川の合戦】である。

千五百八十二年(天正十年)六月に京都で織田信長本能寺の変で横死し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる五万六千の兵で織田領上野に侵攻する。

織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる二万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。

これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可(もりながよし)も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退する。

その為、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。


甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。

このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。


千五百八十二年(天正十年)十月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換する事とした。

翌千五百八十三年(天正十一年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。


千五百八十五年(天正十三年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではない事を理由にして拒否する。

さらに昌幸は、敵対関係にあった上杉氏と通じた。

同千五百八十五年(天正十三年)七月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知る。

家康は八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約七千の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣し、「上田神川の合戦」が勃発する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開する。

これに対して真田方は約千二百人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。

また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

千五百八十五年(天正十三年)閏八月二日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。

さらに後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。

この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は千三百人もの戦死者を出したと言われる。

一方、真田軍は四十人ほどの犠牲ですんだと伝えられる。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後二十日日間程対陣を続ける。

この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政/一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の五千)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は二十八日に上田より撤退した。

その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、十一月には譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退する事になる。


徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦】に続く。

詳しくは、関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-10-09 20:54  

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