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井伊氏(いいうじ)

井伊氏は藤原北家流・藤原利世の後裔を称すも、継体天皇の後裔・三国姓ともされ、いずれが正しいかは明確ではない。

藤原後裔説の藤原北家の藤原良門(ふじわらのよしかど)は、左大臣・藤原冬嗣の六男で、藤原利世は良門(よしかど)の息子と伝えられている。

継体天皇後裔説の三国姓は、継体天皇の子・椀子皇子の後裔にして 、天武天皇十三年(六百三十四年)に三国真人(みくにのまひと)姓を賜姓(たまわりな)する。

為に 旧説で藤原氏良門流と称する二家の大名・井伊家 は三国真人(みくにのまひと)の末裔とされる系譜が有力とされている。

井伊氏は、中世に約五百年間、遠江国井伊谷(いいのや)の庄を本貫として治めた国人領主とされる。

であれば、井伊氏は平氏源氏と同等の後胤貴族の末裔に名を連ねる荘園領主が、平安期鎌倉期室町期を生き抜いて江戸期に至った事になる。


南朝・後醍醐帝と北朝を旗印とした足利尊氏が覇権を争った南北朝時代、井伊谷(いいのや)の豪族であった井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。

道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王(むねながしんのう)の元に参じて南朝方として挙兵、遠江国の居城・井伊城に招いて保護した。

また宗良親王(むねながしんのう)の子・尹良親王(ゆきよししんのう)も井伊城に生まれている。

しかし、北朝方の高師泰(こうもろやす)・仁木義長らに攻められて井伊城は落城する。

井伊氏は、北朝方・駿河守護・今川氏と対立していたが、やがて今川氏が駿河に加え遠江の守護職を得るとその支配下に置かれる。

しかし、戦国期を通して、守護である今川氏とは微妙な関係在った。

今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に、井伊直盛は今川氏に従い討ち死にしたが、戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。

この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだ。

しかし井伊氏の勢力は大きく衰退し、井伊谷(いいのや)の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。


千五百七十五年(天正三年)、直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の一人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、稚児小姓として寵愛を得る。

多くの武功をたて、千五百九十年(天正十八年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪十二万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に十八万石を与えられる。

直政の死後、直政の子の井伊直勝は千六百四年(慶長九年)に近江国彦根に築城したが、千六百十五年(元和元年)幕命により弟の掃部頭(かもんがしら/官名)・井伊直孝に彦根藩主の座を譲った。

井伊氏は、直孝の代には三十万石の譜代大名となる。

なお直勝は亡父の官名・兵部少輔を世襲、三万石として安中藩藩主となった。


この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り井伊家は明治維新まで存続している。

詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2016-02-08 20:04 | Comments(0)  

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