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川中島合戦(かわなかじまかっせん)

川中島合戦(かわなかじまかっせん)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いを指して言う。


信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地が川中島である。

川中島の地は、信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。

当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。

鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。

また、古来川中島は交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。

武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地だった。


この武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との合戦(かっせん)で最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われた。

その事から、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島合戦(かわなかじまかっせん)と呼ばれる。

戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とし、その戦いの度に武田氏の支配地は着実に北上している。

主な戦闘は、千五百五十三年(天文二十二年)の第一次合戦から千五百六十四年(永禄七年)の第五次合戦まで計五回、十二年余りに及ぶ。

だが、実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、千五百五十五年(天文二十四年)の第二次犀川の戦いと千五百六十一年(永禄四年)の第四次みである。

一般に「川中島合戦(かわなかじまかっせん)」と言った場合、最大の激戦であった千五百六十一年(永禄四年)の第四次合戦(旧暦九月九日/西暦十月十七日)から三日間を指す事が多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある。

また、五回に及ぶ出陣の中には出兵対峙のみで双方が交戦を避けた場合も在り、本格的な合戦は二回だったとも言われている。

いずれにしても、川中島合戦(かわなかじまかっせん)は雪解けと種まきの間の空き期間や収穫後の積雪前の時期を主に行われ、農作業の時期が来ると互いに兵を帰している事実がある。


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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-02-24 13:35  

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