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琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)

千八百五十三年(琉球暦:咸豊三年、和暦:嘉永六年)五月、薩摩藩の付庸国・琉球へ黒船が来航する。

アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。

黒船は翌千八百五十四年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。


千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に「陞爵(しょうしゃく/昇格)」して華族に列した。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京する事などを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

そのため千八百七十九年三月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて約六百人を従えて来琉する。

武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、四月四日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされる。

沖縄県令として前肥鹿島藩(佐賀藩の支藩)前主の鍋島直彬が赴任するに至り、第二尚氏王統の琉球支配は終わった。

旧琉球國(ルーチュークク)の王族は、日本の華族とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。

外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展した。

だが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。


なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の人物も存在している。

しかし、過去の冊封関係を持って領有権主張の根拠とするなら、朝鮮半島も、現在独立している周辺国もその冊封関係国の範疇にはいる。

つまり、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も明らかではない。

そして、現・中華人民共和国が台湾や沖縄尖閣諸島などの領有を主張するも、歴史的検証では明帝国に至るまでの各中華帝国は台湾島を含め沖縄諸島などに然したる関心や領有意欲は無かった。

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詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-04-03 00:27  

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