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巌流・佐々木小次郎(ささきこじろう)

佐々木小次郎(ささきこじろう)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての著名な剣術家である。

越前・朝倉領内の道場主・富田勢源 (とだせいげん) 門下として剣術を学び、十六歳頃に一流を立て巌流 (岸流) と称した。

諸国を巡歴し「燕返し (つばめがえし) 」の剣法を創案し後、当時小倉藩主だった細川忠興(ほそかわただおき)に仕えたとされている。


佐々木小次郎(ささきこじろう)は、宮本武蔵の自慢気(じまんげ)な自己紹介自伝で始まる「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」には、何故かライバルとして登場しない剣豪である。

しかし佐々木小次郎(ささきこじろう)は、世に「巌流島の決闘」とされる「船島=巌流島」で武蔵に敗れた剣豪として伝えられている。

しかしながら、「巌流島の決闘」には多くの疑問が呈されている。

その一つとして、小倉藩門司城代だった沼田延元の子孫が先代の書いたものを編集した書に、「武蔵は、隠して弟子たちを島へ連れて来ていた」と言う記述が在る。

武蔵の速い一撃で倒れた小次郎は、気絶から回復し起き上がろうとするも、隠して連れて来ていた武蔵の弟子たちに「袋叩きにされ撃ち殺された」とある。

勿論のこの弟子の助っ人は、「一対一の勝負」の約を武蔵が破った事が明白だった。

同じく細川氏家臣の沼田氏が千六百七十二年(寛文十二年)に編集した文書・「沼田家記」には、巌流島決闘で武蔵側が一対一の約定を違え、武蔵の弟子達が巌流島で小次郎を撲殺とある。

このアンフェアな決闘に怒った小次郎の弟子達の追撃から武蔵が遁走する。

当時門司城代を勤めた沼田延元に保護を願い、延元は武蔵を城内に保護した後、鉄砲隊で警護し、「豊後国に居住する養父・無二のところまで送った」との記述である。

つまりこの二家の古文書では、宮本武蔵とその弟子たちに「卑怯な振る舞いが在った」とする記述が残っている。


そしてもう一つ、巌流島決闘で佐々木小次郎(ささきこじろう)は、「武蔵の一撃で気絶した」とする記述の裏側には大きな年齢差が在る。

記録によると、佐々木小次郎が最初に学んだとされる朝倉領内の道場入門は千五百六十年代前半とされ、千五百八十四年生まれの武蔵とは四十歳前後の年齢差である。

つまり巌流島決闘時、名声を博しつつある武蔵が対峙した相手・佐々木小次郎は盛りを過ぎた初老の剣豪だった相手を多人数で仕留めた事になる。

ただし、宮本武蔵を剣豪とみるからその所業がアンフェアなので在って、本人自称のごとく「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」に在る通り武蔵は兵法者である。

「兵法者」であれば勝つ為に伏兵を用意しようが、上から石を投げ落とそうが煮えたぎった油を撒き落そうが立派な兵法である。


武蔵は、兵法書・「五輪書」に佐々木小次郎を書き記せない程、「巌流島決闘」は後ろ暗い記憶だった。

為に、「巌流島の戦いは、後の創作であり、そもそも佐々木小次郎という人物は存在しない」とする説まである。

しかし大藩の重役級の家二家に伝承される古文書が在る為、佐々木小次郎は存在した」と観るのが必然的である。

詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-07 21:27 | Comments(0)  

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