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物部守屋(もののべのもりや)と丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、古墳時代に起きた蘇我氏と物部氏の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。


五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや/もがり のみや)に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣・三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は、軍を立て直して進軍させた。


舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。

寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので、物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。


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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-12-03 19:30  

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