孝徳大王(こうとくおおきみ/天皇)

孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)は、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の孫で押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子である茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男に当たる。

大王(おおきみ)即位前は、軽皇子(かるのみこ)と呼ばれた。

母は欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の孫で桜井皇子(さくらいのみこ)の王女に当たる吉備姫王(きびひめのおおきみ)である。

皇極大王(こうぎよくおおきみ/第三十五代女帝=斉明大王)とは同母弟となる。

また、孝徳大王(こうとくおおきみ)は、天智大王(てじちおおきみ/第三十八代天皇)=(中大兄皇子)・間人皇女(はしひとのひめみこ)と天武天皇(てんむてんのう/第四十代)=(大海人皇子/おおあまのみこ)の叔父でもある。

その姪である間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にした。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は、有力豪族・阿倍内麻呂(あべのうちまろ/阿倍倉梯麻呂)の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として有間皇子(ありまのみこ)を儲けるも他に子女は確認されていない。

その他、有力豪族・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。



日本書紀」によれば、孝徳大王(こうとくおおきみ)は仏法を尊び、神道を軽んじたが、しなやかな性質で、儒者を好み貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。

また、有力豪族・蘇我入鹿(そがのいるか)を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(なかとみのかまこ/後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)が軽皇子(かるのみこ)に接近していた事が知られている。

皇極四年六月十二日(六百四十五年七月十日)に「乙巳の変(いっしのへん)」が起きると、翌々日に皇極大王(女帝)は中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、中大兄は辞退して軽皇子(かるのみこ)を推薦する。

軽皇子(かるのみこ)は三度辞退して、舒明大王(じょめいおおきみ)の第一皇子・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を推薦するが、古人大兄は辞退して出家した。

変後十四日の内に、軽皇子(かるのみこ)は立太子を経ないまま皇極大王(こうぎょく大王)から史上初めての譲位を受け、軽皇子(かるのみこ)は壇に登って孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)として即位した。


軽皇子(孝徳大王)が、中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。

しかし、軽皇子(孝徳大王)が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は、皇極(こうぎよく)前大王に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智大王・てんじおおきみ)を皇太子とした。

さらに阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にし、中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。

また、学僧・旻(みん/びん)と学者・高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士とした。


孝徳元年六月十九日(六百四十五年七月十七日)、史上初めて元号を立てて大化元年六月十九日とし、大化六年二月十五日(六百五十年三月二十二日)には白雉(はくち)に改元し、白雉元年二月十五日とした。


「日本書紀」の記述に依ると、大化元年から翌年にかけて、孝徳大王(こうとくおおきみ)は各分野で制度改革を行なった。

この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。

しかしこの改革につき、日本書紀が引用する改新之詔四条(かいしんのみことのり)の内、第一条と第四条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものである事が分かっている。

この事から、日本書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。


孝徳大王(こうとくおおきみ)の在位中には、朝鮮半島の国々・高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。

従来の百済(ペクチョ)の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅(シルラ)も人質を送って来た。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は、形骸(けいがい/かたちだけ)のみとなっていた任那(みまな)での徴税・調(ちょう/布を納入する徴税)を廃止した。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は、多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。



北の蝦夷(エミシ)に対しては、渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねさく)と言う古代城柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。

日本書記の史料に見える城柵と柵戸の初めである。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めたが、白雉四年(六百五十三年)に、皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は孝徳大王に倭京(わきょう)に遷る事を求めた。

孝徳大王(こうとくおおきみ)がこれを退けると、皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ)、皇弟=(大海人皇子(おおあまのみこ))を連れて倭京(わきょう)に赴いた。

大海人皇子(おおあまのみこ)は、後の天武天皇(てんむてんのう/第四十代)である。

この遷都対立、臣下の大半が皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に随って去った。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は気を落とし、翌白雉五年(孝徳十年/六百五十四年)、病気になって五十八歳で崩御した。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-08-02 12:11 | Comments(0)  

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