允恭大王(いんぎょうおおきみ/天皇)

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第四皇子である。

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)は、履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)の同母兄弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


日本書紀」に拠ると、反正五年一月、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと/後の第十九代允恭大王)を大王(天皇)に推挙する。

雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと/後の第十九代允恭大王)は、病気を理由に再三辞退して十一ヵ月間も空位が続いた。

しかし、反正五年十二月=允恭元年十二月、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ=翌允恭二年皇后に立后)の強い要請を受け即位する。

允恭三年八月、朝鮮半島・新羅国から医者を招聘、允恭大王(いんぎょうおおきみ)の病気を治療する。

允恭四年九月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち/神判)を実施する。

つまり、今名乗っている氏姓は「神に誓って正しいか」を、後に嘘がばれたら刑を与える事を条件に諸氏族に確認した。

允恭五年七月玉田宿禰(たまだのすくね/葛城襲津彦・かずらきのそつひこの孫)の叛意が露顕、允恭大王(いんぎょうおおきみ)はこれを誅殺する。


允恭七年十二月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は皇后の妹・衣通郎姫(そとおりひめ)を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。

允恭八年二月、衣通郎姫(そとおりひめ)が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。

允恭大王(いんぎょうおおきみ)は遊猟にかこつけて衣通郎姫(そとおりひめ)の許に行幸を続けたが、允恭十年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。


允恭二十四年六月、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の近親相姦が発覚する。

古事記」に拠れば、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を廃太子とし、伊予に配流した。


允恭四十二年一月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は崩御する。

「古事記」、「旧事紀」に七十八歳崩御、「愚管抄」、「神皇正統記」に八十歳崩御、北野本「日本書紀」に八十一歳崩御としている。

新羅王はこれを悲しみ、弔使を送ったと伝えられる。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-08-05 02:44 | Comments(0)  

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