応神大王(おうじんおおきみ/天皇)

応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)は、仲哀九年十二月十四日、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)神功皇后(じんぐうこうごう)の子として生まれた。

「神功皇后紀」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。

また、「応神天皇紀」に拠れば筑紫の蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。

かご坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は異母兄にあたる。


応神大王(おうじんおおきみ)の諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)と伝えられる。

後の編纂に追号記述では、誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。


応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)の名とされる「ホムダワケ」について、誉田別(ほむだわけ/日本書紀表記)・品陀和気(ほむだわけ/古事記表記)は、「実は生前に使われた実名だった」とする説がある。


応神大王(おうじんおおきみ)が存在の確実性を増してからの「日本書紀」の記述による限り、大王(おおきみ/天皇)に和風諡号を追号するようになったのは六世紀の半ば以降と見られる。

とくに応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。


「日本書記」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は神功四年に立太子、応神年に七十一歳で即位する。

「日本書紀」によると応神十四年に弓月君(ゆづきのきみ/秦氏の先祖)が百済(こうくり・コグリョ)から来朝して窮状を応神大王(おうじんおおきみ)に上奏し援軍を求めた。

弓月君(ゆづきのきみ)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅(しらぎ・シルラ)の妨害によって叶わず、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の助けで弓月君(ゆづきのきみ)の民は加羅(カラ)が引き受けるという状況下にあった。

しかし三年が経過しても葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)は、弓月君(ゆづきのきみ)の民を連れて帰還する事はなかった。

そこで、応神十六年八月、新羅(しらぎ・シルラ)による妨害の危険を除いて弓月君(ゆづきのきみ)の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が率いる精鋭が加羅(カラ)に派遣され、新羅国境に展開した。


応神大王(おうじんおおきみ)の 新羅(しらぎ・シルラ)への牽制は功を奏し、無事に弓月君(ゆづきのきみ)の民が渡来した。

古事記」に拠れば、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命(たけしうちのすくね)命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」とある。

「日本書紀」にも同様の記事が見え、応神五年八月の条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。

剣池は、奈良県橿原市石川町の石川池とされている。

「古事記」に、百済(くだら・ペクチェ)の国主・照古王(しょうこおう/百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。

この阿知吉師は、阿直史(あちき)等の祖とされる。

また照古王(しょうこおう)は、応神大王(おうじんおおきみ)に横刀(たち)や大鏡を献上した。

また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師(わにきし)は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。

「日本書紀」の応神十五年八月条と応神十六年二月条に同様の記事が見える。

また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があった事を伝えている。


「日本書紀」には、吉備臣の祖として御友別(みともわけ)の名が、「古事記」には、近江の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。

これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は四世紀から五世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。

事実、景行・履中・反正の各大王(かくおおきみ)の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。

以上の点から、応神大王(おうじんおおきみ)の「ホムダワケ」と言う名も実名だったと、この仮説では見なしている。

なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。

「古事記」では、景行大王(けいこうおおきみ)が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としているが、これは観念的説明との解釈もある。

応神大王(おうじんおおきみ)について上代日本史学者・井上光貞は、確実に実在が確かめられる最初の大王(おおきみ/天皇)としている。

一方、東洋史学者・岡田英弘は越前出身の継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の祖先神であって、「人間ではない」としている。

また、応神大王(おうじんおおきみ)の条は、仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)の条と記載の重複・混乱が見られる。

応神大王(おうじんおおきみ)が河内王朝の始祖と見なす説、日本国外の史料との相対比較から、「宋書」や「梁書」に見える倭の五王の讃に比定する説や他に仁徳大王(おおきみ/天皇)や履中大王(おおきみ/天皇)を比定する説がある。


この頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

「日本書記」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は、応神四十一年に百十一歳で崩御とあり、「古事記」に拠れば百三十歳にて崩御とある。

後世、応神大王(おうじんおおきみ)は、神功皇后(じんぐうこうごう)と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


応神大王(おおきみ/天皇)と仁徳大王(おおきみ/天皇)の疑惑】参照下さい

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:39 | Comments(0)  

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