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元明天皇(げんめいてんのう/女帝)

元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)は、藤原京から平城京へ遷都、「風土記」編纂の詔勅を出し、先帝・文武天皇(もんむてんのう)から編纂が続いていた「古事記」を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

元明天皇(げんめいてんのう)は、天智天皇の皇女で阿陪皇女(あへのひめみこ)を名乗っていた。

持統天皇とは関係が複雑で、父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。

さらに、大友皇子(弘文天皇)は異母兄であり、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(くさかべのみこ)の正妃であり、文武天皇元正天皇の母である。


天武八年(六百七十九年)頃、阿陪皇女(あへのひめみこ/元明女帝)は、一歳年下である甥の草壁皇子(くさかべのみこ)と結婚する。

天武九年(六百八十年)に氷高皇女(ひたかのひめみこ)を、天武十二年(六百八十三年)に珂瑠皇子(かるのみこ)を産んだ。

天武十年(六百八十一年)に夫の草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子となるものの、持統三年(六百八十年)に草壁皇子(くさかべのみこ)即位することなく早世する。


姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年八月(六百九十七年)に息子の珂瑠皇子(かるのみこ)が文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)として十五歳で即位し、同日阿陪皇女(あへのひめみこ)自身は皇太妃(太上天皇代)となった。

しかし慶雲四年(七百七年)、息子の文武天皇が病に倒れ、二十五歳で崩御してしまう。

残された孫の首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)はまだ幼かったため、阿陪皇女(あへのひめみこ)は中継ぎとして、初めて皇后を経ないで元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)として即位した。


慶雲五年(七百八年)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので、文武天皇(もんむてんのう)は年号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。

この時期は大宝元年(七百一年)に作られた大宝律令(たいほうりつりょう)を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等(ふじわらふひと)を重用した。


和銅三年(七百十年)、文武天皇(もんむてんのう)は藤原京から平城京に遷都した。

左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

和銅五年(七百十二年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。

和銅五年には天武天皇の代からの勅令であった「古事記」を献上させ、翌和銅六年(七百十三年年)には「風土記」の編纂を詔勅した。


和銅八年(七百十五年)には郷里制が実施されたが、同年、文武天皇(もんむてんのう)は自身の老いを理由に譲位する事となる。

孫の首皇子(おびとのみこ)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(ひたかのひめみこ/元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。


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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2018-01-28 15:57  

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