以仁王(もちひとおう)

その後、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の挙兵(きょへい)をする。

後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、兄の守覚法親王が仏門に入った為に繰り上げ第二皇子と成った平安時代末期の皇族で、幼少の頃から書や学問、詩歌や笛の才能に優れていた。

以仁王(もちひとおう)は、当然親王になる資格があった天皇の皇子であるが、平家政権の圧力があり「親王宣下を得られなかった」とも言われている不運な皇子だった。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族、鳥羽天皇の皇女・暲子内親王(あきこないしんのう)は、后位を経ずに女院となり「八条院」と号し、終生未婚であった。

八条院は、父母の莫大な遺産や荘園のほとんどを相続し、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群二百数十箇所に及ぶ荘園が女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。

つまり後白河天皇の第三皇子・以仁王は、その八条院の猶子である。

以仁王は若くして英才の誉れが高く、天台座主最雲の弟子となったが師の没後還俗(げんぞく)して元服、皇位継承の有力候補と目されていた。

しかし、異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により親王宣下も受けられぬ不遇をかこって居た所、平家のクーデターが起こり父・後白河法皇が幽閉され、以仁王自身も知行地・常興寺(領)を没収される。

その邸宅が三条高倉に在った事から、以仁王(もちひとおう)は高倉宮または三条宮とも称されていたが、「父・後白河とも疎遠の上に、父・後白河が譲位後に妃とした滋子(平清盛の妻・二位尼時子の妹)とも不仲であった」と言われ、平清盛の妻・時子は高倉天皇生母であるから、実権を平家一門に握られた以仁王(もちひとおう)の不満は当然の事だった。

千百八十年(治承四年)実権を平家一門に握られた不満から、ここに到って以仁王は終(つい)に平家討伐を決意し、源頼政と共謀して密かに平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に向けて発し、平家打倒の挙兵をうながしたのである。

しかしこの事はすぐに露見して平氏の知る処と成り、「宇治橋の戦い」に敗れて奈良に逃れようとする途中、光明山鳥居の前(京都府山城町)で以仁王(もちひとおう)と源頼政は討ち取られて早期に鎮圧されてしまう。

この「以仁王の乱」、「源頼政の挙兵」とも呼ばれた蜂起そのものは、以仁王(もちひとおう)自身は準備不足の為に計画が露見して平家一門の追討を受け殺害されたが、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:02 | Comments(0)  

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