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水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)

水戸黄門(みとこうもん)=徳川光圀(とくがわみつくに)は、徳川家康の十一男・徳川頼房の三男である。

父・徳川頼房が常陸国(茨城県)に二十六万石を与えられて御三家の一つ水戸藩を起こした事に始まる水戸徳川家の第二代藩主を勤め、隠居後に藩校・彰考館に安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)、佐々宗淳(さっさむねあつ・介三郎)らを登用、「大日本史」の編纂に取り掛かる。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南朝関係の史料を広く収集している。

実は南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

光圀が第二代藩主に収まるには頼房・長男と言われる松平頼重(まつだいらよりしげ)との奇妙な経緯があり、第三代藩主には松平頼重(まつだいらよりしげ)の長男・綱條(つなえだ)を養子に迎えている。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事が無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?

事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

水戸黄門の真実】 へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

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詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:41  

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