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水戸藩(みとはん/水戸徳川家)

大日本史編纂には隠された真実があった。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り水戸藩とし、御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸光圀の大日本史編纂には、影の目的があった。

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が家康の命により常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立する。

御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・徳川忠長を家祖とする駿河徳川(松平)家・(五十五万石)の断絶後、千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり本来は別の立藩目的が在った水戸家だが、前後の事情から水戸家は補欠から御三家に繰り上げられた経緯が伺えるのである。

水戸藩は将軍の補佐を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)であった。

しかし、そもそも表向きを老中・大老が合議決定する幕閤に在って、水戸藩々主の江戸定府の役割は何だったのか?

その辺りに、水戸藩(みとはん)が徳川本宗家を補佐する隠された密命がなければ、ここは説明が着かないのである。

水戸黄門の真実】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

注意)、 本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:44 | Comments(0)  

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