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源(土御門)通親(みなもとの・つちみかど・みちちか)

源通親は土御門を名乗る公家であったが、安倍氏の血筋ではない。

通親は村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していた。

村上源氏嫡流に生まれた土御門通親(みちちか)は、後白河上皇院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。

通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。

実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。

権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的であったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには、止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。

つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。

平安末期の千百八十三年(寿永二年)夏、平家木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。

その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)であった藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎えて曹洞宗開祖・道元を為している。

千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。

新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。

十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代であったが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:31 | Comments(0)  

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