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日野資朝(ひのすけとも)と「正中の変」

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ/皇位の継承)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。

即位した後醍醐天皇(第九十六代)は、本来持明院統から出るべき次期皇太子を拒み、自分の系統(大覚寺統)から皇太子を定め、皇位継承問題で持明院を支持する鎌倉幕府と対立を始める。

即位六年目、千三百二十四年、後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。

後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしもと)らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。

美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。

これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。

そして、その本質は、賀茂家の影人の血筋だった。
つまり、日野家も影の血を引いていたのだ。

それ故、今度の事には後醍醐天皇に味方した。

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 21:32 | Comments(0)  

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