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百姓(ひゃくしょう)

今日では、「百姓(ひゃくしょう)とは農業従事者である」と言う解釈が一般的である。

しかしその事を批判無く受け入れてしまう事は、「倭の国」を「古来から日本国だ」と安易に解釈するのと同様の歴史音痴な事である。

百姓(ひゃくしょう、ひゃくせい、おおみたから)と言う身分であるが、実は初期の大和朝廷国家での身分は低くない。

明治の版籍奉還(はんせきほうかん)によって江戸期での区分が曖昧(あいまい)に成ったが、農民(のうみん)と百姓(ひゃくしょう)は以前は区別される身分だった。

律令制における被差別階級として、賤民(せんみん)がある。

賤民(せんみん)を、姓(かばね)を有しない自由民の下人(げにん)と非人(ひにん)に分け、非人(ひにん)を奴婢(ぬひ)と称して律令制における被差別階級に組み入れ、隷属的に支配していた。

公に大和朝廷政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められていた。

「奴(ぬ)」が男性奴隷、「婢(ひ)」が女性奴隷で、その身分も親子代々受け継がれたものだった。

奴婢(ぬひ)は制度上人間扱いしない所有物であるから、奴(ぬ)は力仕事で酷使し、婢(ひ)は仕事をさせながら持ち主の慰め者として扱われた。

永きに渡り続いた血統に拠る差別の基本だった氏姓制度において、百姓の下に在ったのは良民・下人(げにん)であり、その下に在ったのが非人(ひにん/奴婢・ぬひ)である。

補助的な餞民農民(せんみんのうみん)を束ねるのは、氏の子孫、有姓階層全体を指す「百姓」であり、支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓の総称だった。

それ故、貴族、武士、神官、僧侶も永い兼業時代があり、他の多様な生業(なりわい)も含め、安土桃山時代の「太閤刀狩」に至るまでの長い事、武士と百姓は「さしたる差はなかった。」と言うより農業も兼業だった。

この農業兼任の百姓で、武士の下に位置するのが郷士である。

中世以降次第に「百姓の本分を農とすべき」と言う思想が広がり、明治維新以後は「一般的に農民の事を指すと」理解されるようになった。

その事を踏まえて領地を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)をそれぞれが名乗ったり、熱田大宮司家らが藤原氏から養子を迎え藤原に改姓したり、それらの氏の女子をめとり母系によって藤原、その他の姓(源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、他の名族の姓)を称した例もあるが、旧姓を名乗る身内も出るなど、膨大な姓が誕生する。

しかし代を重ね、枝分かれして身分は低くなり、高位の身分とは大差が付いて行く。

その総称が、「百姓」の語源で、当初は身分の低い氏族だったのである。

つまり、村主、庄屋、名主は百姓であり、姓を持たぬ民(餞民・奴婢)とは区分けされていた。

その言い回しが「民と百姓」と言う分け方である。

百姓は氏族、農民は民人(賤民)が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人(賤民)が、本来の町(人)民(賤民)だった。

つまり豊臣秀吉の「太閤刀狩」は、専業武士(統治と武力行使を担当)と氏族系百姓の間に明確な線引きをして、氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主を町人、氏族系の地主を百姓と身分を明確に分けた「身分制度改革」だったのであり、それらの身分制度は江戸期に入って確定し、氏族系百姓身分の商業者は町人(商家/商人)と成ったのである。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 21:51  

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