白村江(はくすきのえ)の戦い

疑惑との関わりで、六百三十年(奈良時代)頃の白村江(はくすきのえ)の戦いについても、触れておきたい。

天智(てんち)大王(おおきみ・天皇第三十八代)は、滅亡状態であった百済復興の為に、時の朝廷(呉族・百済系)は半島に百済救済の大軍を送り、白村江(はくすきのえ)で、大敗を喫している。



六百三十年(奈良時代)頃、日本列島の大和朝廷は、呉族・百済系有力豪族王達の擁立の元、女帝の斉明天皇が即位し、中大兄皇子が実務を担当していた。

処が、当時血縁の深かった朝鮮半島の国・百済王国(呉族系)が、大陸の唐帝国と朝鮮半島の新羅王国(加羅族系)に攻められ、滅亡状態であった。

新羅王国が唐帝国の力を借りて六百六十年に百済王国が滅亡、半島(朝鮮)側の倭国群は加羅族系の新羅王国に統一される。

その後即位した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、天智大王(てんちおおきみ・天皇第三十八代)を名乗る。

六百六十三年には、滅亡状態だった呉族系・百済王国の残党が朝鮮半島側で決起する。

日本列島側・大和朝廷はその「呉族系・百済」の復興に支援を始め、唐・新羅との対立関係が悪化する。

天智大王(てんちおおきみ)と時の朝廷(呉族・百済系)は、滅亡状態に在った祖先の地・朝鮮半島・百済国(くだらのくに)の復興の為に、朝鮮半島に百済救済の大船団・大軍を送る。

しかし大和からの援軍は、白村江(はくすきのえ)の海戦で帰り討ちに遭い、唐帝国と新羅王国の連合軍に大敗を喫している。

大和朝廷はこの「白村江の戦い」の敗北に拠り、決定的に朝鮮半島側への友好関係を失う事になる。

六百六十三年に新羅王国(しらぎおうこく)が中華・唐帝国の力を借りて、呉族系・百済と日本列島・大和朝廷の連合軍を打ち破る。

呉族系・百済王国は完全に滅亡、半島(朝鮮)側の倭国群加羅族系の新羅王国に統一される。


ここで問題なのは、この白村江(はくすきのえ)の敗戦で「列島(日本)側・大和朝廷政権は無傷だったのだろうか?」と言う疑問である。

この百済救援の出兵、百済と天智帝の血縁関係を抜きにしては正しい判断が出来ない。

まことしやかに噂される天智帝が「百済を故郷に持つ王族と血縁の人物ではないか?」と言う疑問である。

この白村江の戦いで、「唐・新羅連合」百七十隻に対し「大和・百済連合」四百隻が破れている。

圧倒的に数に勝りながら、列島の民は大海戦で敗れ去った。

結果、列島(日本)側・大和朝廷の国はこの当時敗戦国である。

この白村江(はくすきのえ)戦いの敗戦後、九ヶ月ほどして戦勝国・唐の使者(副将)郭務`�(kakumusou/カクムソウ)が、四十七隻の軍艦と二千人の兵を率いて進駐して来る。

中華帝国・唐の郭務`�(kakumusou/カクムソウ)と占領軍二千人が来て、何故か一ヶ月足らずで、大和朝廷・天智帝は突然謎の崩御をして居る。

七ヶ月間の唐軍の進駐期間に、大和国で何が起こり、何が齎(もたら)されたのか?

白村江(はくすきのえ)の大敗から僅か一年後、唐の占領軍二千人が来て一ヶ月足らずで天智帝の崩御があり、天智天皇の皇子・大友皇子が弘文(こうぶん)大王(おおきみ・天皇第三十九代)として即位(?・正式の即位では無い)したのだが、そのタイミングで突如大海人皇子(おおあまのみこ)が現れ、「壬申(じんしん)の乱」が起きているのである。

この乱の符合は偶然だろうか?

そして、この唐軍の進駐期間には奇妙な欠落部分がある。

白村江(はくすきのえ)の戦いの戦勝国は、唐帝国と新羅国で、当然ある筈のもう一方の勝者、「新羅との敗戦処理」が日本史には痕跡も無い事が返って怪しいのだ。

戦勝国・新羅の進駐軍、或いは割譲地の統治者として乗り込んで来た新羅の者の存在が、記録に全く無いのである。

その戦勝国・新羅の動向が記録に全く無い事が、大海人皇子(おおあまのみこ)が「新羅王の弟説」と言う「疑惑」の根拠である。

戦勝国・新羅王の弟が占領軍または一部国土を割譲した為の渡来であれば、天智天皇が誓約(うけい)の証として娘四人を大海人皇子(おおあまのみこ)に奉じて「互いの融和を図った」とするならば、大海人皇子(おおあまのみこ)が兄・天智天皇の娘四人をたて続けに娶った疑問がスッキリ解決出来るのである。

天武天皇(大海人皇子)が壬申(じんしん)の乱を経て政権を奪取したこの時機と、列島(日本)側・大和朝廷に新制度「律令制」が導入された時機が重なっている。

これは偶然だろうか?

天武天皇には隠された事情があり、制度を改革して今までの統治の構図を一新させざるを得無い権力強化の必要があったのではないだろうか?

天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、持統天皇(女帝/天武天皇后妃・天智天皇の娘)の時代(六百八十九年)に律令が完成・施行され、七百一年の大宝律令の制定・施行へと続いて行くのである。

仮に大海人皇子が、皇統に紛れ込んだ新羅王の弟としても、「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人(とねり)親王である事から、大友皇子の立太子の事実及び大海人皇子(天武天皇)の皇位簒奪の経緯についてはいくらでも有利に脚色出来る為、手放しの信用は出来難い。

そしてここら辺りが怪しいのだが、修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が現れたのは、この天武大王(おおきみ/天皇)の御世である。

大海人皇子が海人族であれば賀茂葛城族とは同族で、天武大王(おおきみ/天皇)の皇位と権威の確立の為に、天武大王(おおきみ/天皇)直属の修験秘密警察が誕生した事も充分に考えられる。

しかし仮にそれが事実としても、まだその頃は朝鮮半島を含めて、日本列島も倭(わ)の国々だったので、倭(わ)人同士後の日本の戦国時代の国の取り合いの様に、あまり他国意識は無い為に「違和感なく付き合えた」のではなかったのか。

現代の人種意識の「物差し(ものさし)」で、この事を理解しようとすると、また違った物語が出来てしまうのである。

六百八拾四年(天武十三年)の八色の姓(やくさのかばね)の制度の頃からか、大王(おおきみ)の地位の確立を進める為、臣王(おみおう・御門・みかど)達が朝臣(あそみ・あそん)に成り、大王(おおきみ)が帝(みかど)に成った。

帝(ティ)を「みかど」と読むのは日本だけで、元は数が多かった御門(みかど)が一人の大王(おおきみ)の事に絞られてそう読まれる事になったのではないだろうか。

一番上の姓(かばね)である真人(まひと)は、主に皇族に与えられ、次に朝臣(あそみ、あそん)、臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などが、八色の姓(やくさのかばね)の身分をも表す姓(かばね)制度で、天皇家への権力掌握をはかったのである。

そして、実質「新しい朝廷が成立した」のかも知れない。
か、と言って天皇家の血筋が途絶えた訳ではない。

大海人皇子(天武天皇)の皇后は、天智天皇の第二皇女である。

天武天皇が亡くなると、皇后は息子の草壁皇子を即位させようとするが、即位前のもろもろの対処に手間取り、その間に草壁の皇子を病死で失ってしまう。

そこで、孫の軽皇子が成長するまでの中継ぎに、自分が即位して持統天皇(じとう・女帝・第四十一代)を名乗る。

軽皇子が十五歳に成ると、自らは太上天皇となり、軽皇子を文武天皇(もんむ・第四十二代)として即位させ、孫の天皇を支えた。

女系ではあるが、元の皇統に復して、後に繋がって行くのだ。

この頃から、飛鳥から平安時代にまたがり、長く勢力を誇った藤原(中臣)氏が、朝廷を庇護る大豪族として、隆盛を極めて行く。

この様に、細々と皇統が繋って行くのが、良く判る。

日本の天皇を始め、豪族もその配下も、血筋的には倭人である。

朝鮮半島の人々も、先祖は「倭人である」それ以外の何者でも無く、この頃にはまだ充分にその意識が残っていたのだ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 22:39 | Comments(0)  

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