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徳川家康(とくがわいえやす)

ご存知徳川家康(とくがわいえやす)は、織田信長豊臣秀吉亡き後天下を手中にして征夷大将軍となり江戸幕府を開いた武将である。

人は努力だけでは為しえない事が多い。

何故に三河の今にも討ち潰されそうな小戦国大名・徳川家康(とくがわいえやす)が生き残って天下に覇を唱えたのかには、織田信長の謀略がその切欠だった。

徳川家康(とくがわいえやす)は、幸運にも織田信長の謀略に乗った形でその天下取りのスタートに立ったので在る。

但し関わりがあるので、謀略のヒントとして織田信長と後の徳川家康(とくがわいえやす)との初めての出会いを記述して置く。

松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国・今川家、西は尾張国(おわりのくに)の織田家に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

その松平広忠と於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)との間に生まれたのが後の徳川家康(とくがわいえやす)である。

家康の父・松平広忠は、勢力を広げつつあった尾張国の織田信秀に対抗する為に、駿河の今川義元に帰属する決意をし、幼名を竹千代(たけちよ)と称した六歳の家康は、人質として駿河国府中へ送られる。

所が、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、家康(竹千代)は尾張・織田信秀の元へ送られてしまう。

ちょうどその一年前の千五百四十八年(天文十七年)織田信長の傅役(ふやく/教育係)でもあった重臣・平手政秀の奔走により、信長は父の信秀と敵対していた美濃の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・帰蝶(濃姫)と十四歳の信長とは政略結婚して居た。

その翌年、今川義元の元に人質で送られる筈の松平竹千代(家康)が戸田康光の裏切りに合い、尾張国・織田信秀の元へ送られてしまう。

尾張国で、六歳の松平竹千代(たけちよ)は、新婚成ったばかりの信秀の嫡男・織田信長(当時十五歳)と知故を得ている。

信長は、九才年下の家康(竹千代)に目を掛け、目の届く所で遊ばしたりして「可愛がった」と言われている。

実はこの時点で、天才信長は持前の知恵を働かせてある絵図を描いていた。

信長が傅役(教育係)で付き従う平手政秀に在る事を依頼して密かに松平家重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が信長の居城・那古屋城に招かれた。

そこで本多重次と鳥居忠吉は、元服したとは言え小童(こわっぱ)に近い織田家の嫡男・信長から容易ならない策略を聞き、目を剥いて驚きその大胆な話に二人とも「この若き武将に家運を託そう」と心服している。

幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。

大胆ながら松平のお家の為には願っても無い申し入れで、松平家重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉は、その策略に合意して以後それを実現すべく内密に動いた。

松平竹千代(たけちよ)は二年余りを尾張の織田信秀の元で過ごし八歳に成っていたが、今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移される事に成る。

その時に松平家臣団の本多重次と鳥居忠吉の二人が奔走してその人質交換に動いたのだが、その話は現代の今でも伏されている秘密で在るから、解き明かすのはこの章の最後のくだりで明かす事にする。

織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。

この時と、征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと、武家としての叙任の慣習に添わないので、「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。

いずれにしても、自称程度の話で松平家の出自は定かではない。

しかし、天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。

徳川家康(竹千代・双子説あり)は、その出生の秘密為に、双子の「影」として、織田家の人質として織田家家臣・平手政秀に育てられたり、雑賀孫市(鈴木「佐太夫」重意)の庇護を受けたりと、父(松平広忠)の愛を知らずに育っている人物である。

その当時に、家臣を始めとする人の情けを知ったが為に、この時代の棟梁に珍しく、常に家臣に気を配って人望を集め、天下取りに成功している。

徳川家が三河の一豪族だった頃、名乗っていたのは松平姓で、本来は枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。

三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族だった。

発祥の地名が加茂郡で、家紋は賀茂神社と同じ葵紋である。

賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。

しかし、徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図があるだけである。

松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得河氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 01:03 | Comments(0)  

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