稚児小姓(ちごこしょう・・/氏族社会の)

稚児小姓の歴史は古く、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった事が最初である」とされている。

それが平安時代には、公家や僧侶とやがては武士と言った氏族全般に一種のステータスとして稚児小姓の愛玩風習が広がり、鎌倉時代から明治維新まで習慣として残っていた。

稚児(ちご)を寵愛する風習の原点は、古来から伝わる我が国の自然信仰に有る。

「神霊は幼い子供の姿を借りて現れる」と言う自然信仰の下、神が降りる為の仮の肉体として「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼ぶ稚児の肉体を「神仏の顕現」と見なす宗教的側面が在った。

少年を「神霊の化身」とし、稚児を「尸童(よりまし)または依憑(よりわら)」と言う神が降りる状態にする為の肉体的交わり自体を神聖視する信仰が日本の男色の風習の背後に存在した。

稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされ、神仏習合修験道(密教)では呪詛巫女(じゅそみこ)と同じ様に呪詛のアイテムであった。

つまり僧侶の間で始まった衆道(しゅどう)は稚児(ちご)と呼ぶ小坊主に御伽(おとぎ)をさせる事で、その根底に在ったのが弘法大師(空海)が中国から持ち帰ったインドヒンズー教に端を発する梵語(ぼんご/サンスクリット語)経典の解釈から始まる呪詛的な意味合いを持っていた。

古来より東大寺法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽白拍子・今様、舞楽、風流(ふりゅう)、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」と言う名で括られて演じられていている。

その「延年」の演目には稚児(ちご)も出るのが特色で、鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた「延年」にて稚児舞(ちごまい)を舞った少年が、指名されて僧侶と同衾(男色/衆道)する事が行われた。

この辺りを観てしまうと、どこまでが信仰心か疑わしく、むしろ遊興の口実の一環として信仰に結び付けられ「稚児との男色(衆道)の交わりが為されていた」と考えられる。

当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手で当然ながら、「千手丸事件」の千手丸は勝覚僧正の寵愛を得ていた事になる。

つまり稚児との男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行き、特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

近年では祭典の出し物として世俗一般の稚児行列が加わっているが、昔の寺の稚児は僧侶の愛玩目的であった。

しかし稚児はその時代の社会合意で在ったから稚児の成り手の希望は多く、僧侶は選ぶのに苦労した程だと言う。

これには事情があり、当時の僧侶は時代的に最高の学問を修めたステータスで、庶民の学校が存在しない時代に稚児に上がって僧侶に可愛がられ、学ぶ事で将来僧侶に成る早道だった。

また元服前に稚児に上がって寺を去っても、今の卒業証書と同じで「**寺の**僧侶の稚児を務めていた」は学が有る証拠で、貴族社会や武家社会に務め口の門が広がり出世の道が開けた。

明治維新後にタブーに成った部分だが、ハッキリ言え女性の肉体には男根を受け入れる穴が三つあり、男性の肉体にも穴が二つある。

つまり衆道(男色)・稚児小姓は、その二つを使って主(あるじ)と性的な行為をする事である。

現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。

ただし現代のように男性同士に偏った個人的な性癖ではなく男女両刀使いが一般的で、そして明治維新前の主従関係では、それは上流社会の嗜(たしな)みとして公然と認められていた。

従って日本に於いては平安末期から明治維新までの永い間、肛門性交を否定する環境に無かった訳で、今は口に出すのはタブーだが行為は廃(すた)れずに残っている。

この事でも判る通り性的な倫理観など時代時代で変化する物だから、当時の性的な倫理観を現在に当て嵌めて批判するのは知的で無い。

そうした経緯から世の中に稚児=出世の連想が生まれて、現在の祭典の出し物としての稚児行列となった。

しかし歴史を語る上で、ここで一度「異常」の定義について考えて置きたい。

この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、こうした基準は歴史と伴に変遷するものである。

「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。

つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。

そう言う訳で、現在の個人の思想信条や社会合意を基準に過去の歴史的な事象を「信じられない」と否定して葬り去ってはならない。

一所を構える領主の子息ともなると、武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手、成長すると稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされ、神仏習合修験道(密教)では呪詛巫女(じゅそみこ)と同じ様に呪詛のアイテムで、氏族(公家や武士)には憚(はばか)る事の無い公(おおやけ)な習慣であった。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五~十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。

しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

稚児小姓上がりで最も有名なのは織田信長の側近・森欄丸である。

稚児小姓とは閨で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

つまり、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から大出世している。

また、徳川家康における井伊直政との間柄も有名な話で、徳川譜代大名・井伊家の藩祖・井伊直政は、家康に見出され小姓(児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

戦国期は、親兄弟息子に到るまで油断がならない。

増してや部下などは、下克上を虎視眈々と伺っているやも知れない。

大方が自分もそうして来たから、それが世の習いだった。

それ故この時代、大名は稚児小姓を愛でる習慣があったが、それは、硬い絆の元に安心できる部下の確保育成を目的とする一面を持っていた。

稚児小姓になる方も、主君の信頼を獲得し、出世が保障される所から、世間でもこの関係を、「さして異様なもの」とは扱われていなかった。

もっとも同性同士はめずらしいだろうが、異性同士なら、実は現代の上司と部下の場合でも「職場不倫」と言う形で存在し、さして珍しいものではない。

けして職場不倫をお薦めしたり肯定する訳ではなく、ただの心理分析であるが、職場不倫には、互いに不安を打ち消す手段として、奇妙な「刹那的(せつなてき)安心心理」が介在している。

つまり、古代から脈々と流れている性交を交えて信頼関係を築く「誓約(うけい)心理」が、変形して具現化されたものである。

腹心の部下を「懐刀(ふところかたな)」と言う。

職場不倫にも、ある種そうした要求が働く。

基本的に「誓約(うけい)心理」が働いて関係が形成されるものであるから、ドロドロの関係になる危険を孕むにも関わらず、発生する不倫には、ただの肉体的快楽目的だけではなく、相応の、安心の合意に拠る人間的心理が働く。

弱肉強食のコンクリートジャングルの職場社会にあって、上司が本当に気を赦せ信頼できる異性は肉体(性交)を赦す相手である。

部下の方も、上司が愛人なら、職場として安心できる環境が整う事になる。

そうした人間心理「誓約(うけい)」は、何千年も変わらない事を意味している。

結局の所、人間の能力のサポートは血統か「縁」である。

血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。

誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。

そう言う意味において、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。

この時代、誓約(うけい)の概念における男色(衆道)相手の稚児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかったのである。

森欄丸は、美濃・斉藤家の家臣から客将、家臣に納まり、近江・坂本城で討ち死にした知将・森可成の三男である。

森欄丸は織田信長の男色寵愛を受け、稚児小姓から岩村城五万石の大名にまで取り立てられ、二世代の織田・家臣団のトップとして本能寺の変の折も最後まで信長の傍近くに居て討ち死にしている。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 03:35 | Comments(0)  

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