太閤刀狩(たいこうかたながり)

従来の解釈として、刀狩(かたながり)は、百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策とされている。

しかし間違っては困るが、厳密には百姓有姓氏族である。

そして農民は民人(良民と非人/餞民)が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

貴族、武士、神官、僧侶も永い兼業時代があり、同様に町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。


一般的に「太閤刀狩」は豊臣秀吉が百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った安土桃山時代の政策として知られている。

最初に刀狩を行なったのは織田氏家臣の柴田勝家越前国の一向一揆の鎮圧の為に行っている。

千五百八十五年六月(天正十三年)秀吉が高野山の僧侶(僧兵)に対して武装放棄を確約させており、これを刀狩の最初とする見方もある。

同千五百八十五年八月に秀吉は、第二次雑賀攻め(太田城の戦い)に於いて根来衆雑賀衆から武器没収を行っいる。

その三年後の千五百八十八年八月(天正十六年七月)に、本格的豊臣政権を樹立した秀吉が刀狩令(同時に海上賊船禁止令)を出して大規模に推進した政策を指す。


豊臣秀吉は、氏族系百姓(商人や工業主、鉱山主、船主、村主、庄屋、名主、地主など)と専業武士(統治と武力行使を担当)の間に明確な線引きをして、「太閤刀狩」と言う「身分制度改革」を強力に推進した。

その理由こそが、彼自身の出自が支配階級の血統である氏族系ではなかったからではないだろうか?

つまり豊臣秀吉は、山窩(サンカ・サンガ)だった説を採れば氏族系百姓でさえ無かった。

だから、古来からの血統を重視した氏族制度を、「太閤刀狩」のその時点でご破算にして、自分やその一党を含め、乱世で頭角をあらわした桃山時代当時の専業武士(統治と武力行使を担当)を、その出自に関わり無く「新たな支配階級として確定させる狙いがあったのでは」と疑えるのである。

何しろ秀吉の直系の家臣は、蜂須賀小六を始め、大半が氏族系の出自ではない事を考えると、「太閤刀狩」の原点が見えるのである。

豊臣政権成立時に、秀吉本人も含め従来の氏族ではない身分の者が戦国期の動乱の中から勢力を得て新たに氏族(武士)の列に加わり、一国一城の主・領主階級となった。

同様に明治維新の際も、旧藩主以外に維新に貢献した下級武士が爵位を授かって貴族に列している。

その上で、豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、千八百七十六年(明治九年)・明治政府の「廃刀令」も実行された。

詰まりの豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、明治政府の「廃刀令」も、本音は新体制確立の為に出回っている武器を取り上げて政権の安定を狙ったものである。

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 05:51 | Comments(0)  

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