蘇我馬子(そがのうまこ)
その争いの時点で、大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の力は拮抗していたが、欽明大王(おおきみ・天皇・第二十九代)が仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。
この時代まだ、日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。
物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・蘇我馬子(そがのうまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。
物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。
用明天皇が崩御すると、物部守屋は、再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが、蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。
この丁未の乱(ていびのらん)の敗戦で、加羅系・物部氏(新羅派)は衰退して行く。
反対に、大連(おおむらじ)・物部守屋を破った高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。
蘇我馬子の擁立したのが、崇峻大王(すいしゅんおおきみ・天皇第三十二代)であった。
この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。
厩戸(うまやど)の皇子(後の聖徳太子)である。
本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。
この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。
狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。
つまり地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。
明治以後の大日本帝国で、天皇家の神格化教育が行き届き、天皇が絶対君主と教わって、当然と思っていた天皇の立場とは、当時の真実の事情とは相当感じが違うのだ。
その時々の有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達に翻弄され、利用されながら、それでも皇室は脈々と続いて来た。
この時代だけ切り取ると、まるで大和の国は各々に祖国を持つ民族が勢力争いを繰り返す多民族国家である。
現在のアメリカのような「人種のるつぼ」である。
後、二千年もしたら、アメリカも混血が進んで、同化した民族が出来上がるかも知れない。
「有史以来の単一民族」、「万世一系の天皇」と、一度刷り込まれた先入観を払拭するのは、結構大変なのだ。
蘇我馬子に擁立された崇峻天皇であるが、その後何故か大臣・蘇我馬子の指図によって暗殺されれしまう。
この暗殺劇、この後の記述で厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の異説として取り上げるが、蘇我馬子に容易ならぬ陰謀が有ったらしい。
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皇統と鵺の影人
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