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推古大王(すいこおおきみ/女帝)

推古大王(すいこおおきみ・第三十三代女帝)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の皇女にして母は大臣・蘇我稲目の娘・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)、用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)は同母兄、崇峻大王(すしゅんおおきみ/第三十二代天皇)は異母弟にあたる。

推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝) は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言い、十八歳の時に当時皇子(後に敏達大王・第三十代)だった異母兄の渟中倉太珠敷皇子(ぬなくらのふとたましきのみこと)の妃となる。

敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)三十四歳の時に敏達大王が没し、同母兄の用明大王(第三十一代)異母弟・崇峻大王(第三十二代)と続くが、崇峻大王が大臣・蘇我馬子の指図によって暗殺され、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は大臣・蘇我馬子の要請に応じて三十九歳の時に推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)として即位する。

夫亡き後、推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)を実力で支えた大臣・蘇我馬子は母方の叔父(母の弟)であるが、異母兄の敏達大王(第三十代)の妃に成るくらいだから、夫亡き後に頼りに成る叔父の蘇我馬子と男女の仲に成っても、当時の習慣上はなんの不思議もない。

むしろ、敢えて無理やりに女帝・推古大王を据えた大臣・蘇我馬子のその意図に、我輩にしてみれば男女の仲を疑うに足りるものがある。

推古大王(第三十三代女帝)は、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。

この「皇太子として万機を摂行させた」と言う事は「全てを任せた」と言う事で、それだけの信頼を置ける相手とは男女の関係が想像されても不思議は無い。

聖徳太子の生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古大王(第三十三代女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?

その理由であるが、遣隋使に託した遣使の国書の文言に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。

つまり、蘇我馬子またの名を厩戸皇子(うまやどのみこ)が大王(おおきみ・天皇)と対等だった。

なお、隋書・倭国伝によると、「日出づる所の天子・・・の国書」を送った人物は阿毎多利思北弧(アマノタリシホコ=音の当て字)と成って居る。

但しこの阿毎多利思北弧(アマノタリシホコ)が誰を指すのか、記紀(古事記・日本書紀)では一致せずに、読み取れない。

これは同じく隋書・倭国伝や魏志倭人伝に記述されている卑弥呼(ヒミコ)の存在が記紀(古事記・日本書紀)では誰を指すのか読み取れないのと同じである。

なお、隋書・倭国伝によると、「日出づる所の天子・・・の国書」を送った人物は阿毎多利思北弧(アマノタリシホコ=音の当て字)と成って居る。

但しこの阿毎多利思北弧(アマノタリシホコ)が、誰を指すのか記紀(古事記・日本書紀)では読み取れない。

これは同じく隋書・倭国伝や魏志倭人伝に記述されている卑弥呼(ヒミコ)の存在が記紀(古事記・日本書紀)では誰を指すのか読み取れないのと同じである。

そしてこの人物、阿毎多利思北弧(アマノタリシホコ)が、日本列島の西半分を代表する大王(おおきみ/後の天皇)とは言い切れない。

何故ならば、勿論正式な遣隋使・小野妹子(おののいもこ)のエピソードならば、記述内容の信憑性は高い。

だが、当時の大和朝廷地方王(臣王)の連合体で、隋帝国に於いても地方王(臣王)の朝貢史(外交史)を大和朝廷を代表する「大王(おおきみ)の使い」と錯誤する紛らわしい事例もかなり多かったからである。


大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・御門/みかど)蘇我氏は、歴代の大王(おおきみ)に妃(皇后)を送り込む有力氏族で、歴代大王(おおきみ)とは叔父甥などの血縁関係も多く、逆に女帝の愛人であっても何の不思議も無い。

おまけに大王(おおきみ)は武力を持たないから、女帝が頼り甲斐がある臣王(おみおう)の蘇我馬子と愛人関係に有った方が、治世が上手く行くのである。

時代を錯誤する方が居られるので念押しをして置くが、この推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)の御世ではまだ坂東(関東)が開拓され始めたばかりで、大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威は関東以北の東北地方にまで到っていない。

その頃の東北地方は朝廷側言う所の蝦夷(えみし・縄文先住民)の国で、遥か時代が下がった桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)や坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を送って隷属化するまで異国だった。

つまり推古天皇(すいこてんのう/第三十三代女帝)の御世は、まだまだ大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威が混沌としていて不思議が無い。
その上での厩戸皇子(聖徳太子)に「虚像」の疑惑が浮上する。

古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をしてかからない事には、古事記日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。

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詳しくは、小論【聖徳太子は実在したか?その疑惑を追う】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 15:01  

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