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白河天皇(しらかわてんのう/後に上皇・法皇)

この平安期、源平に於ける平氏の優劣が再び逆転するのは白河上皇(法皇)の登場がきっかけである。

藤原北家流摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

即位四年後、後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子だった白河天皇(後に上皇・法皇)(第七十二代)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言したのである。

しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据えた。

所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。

白河上皇は、堀河天皇即位の時周りを納得させる為に、「次には輔仁(すけひと)親王を天皇位につけてやる。」と約束していた。

しかし、この白河上皇(法皇)が結構に曲者で、公家と勘解由小路党(かでのこうじとう)を使って自らの院政を画して源氏平家の間を暗躍する。

堀河天皇が夭折すると、白河上皇(法皇)は約束を破りわずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言時の約束とその後の弟との約束を、二度も反故にしたのである。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫・藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。

白河上皇(法皇)は、藤原氏による摂政・関白政治を改め、自らが政治権力を掌握する野心を持っていた。

長く太政大臣を独占していた藤原一族の勢力が、ようやく衰えを見せて、地方の政治運営が乱れていた。

そこで、藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党)は邪魔である。

対抗するもう一方の武門の旗頭、平家の力の育成に密かに腐心していた。

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 19:22 | Comments(0)  

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