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壬申(じんしん)の乱

大化の改新から二十六年、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)が崩御する。

しかし一年後、天智大王(てんちおおきみ/天皇)の皇子・大友皇子が弘文大王(こうぶんおおきみ・第三十九代天皇)として即位(?・正式の即位では無い/明治三年追認)または即位寸前に天智天皇・弟(?)の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子(おおあまのみこ)の勝利、弘文天皇(後世追認天皇)の自害で、乱は幕を閉じる。

壬申の乱(じんしんのらん)は、六百七十二年に起きた「日本古代最大の内乱?」であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ)に対し、皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。

この「呉族系豪族を味方にした」との日本書紀の記述や大海人(おおあま)の名から大海人皇子(おおあまのみこ)は百済系・呉族と解される。

だが、実は大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅系・加羅族の出自では天智大王(てんちおおきみ)のあとは血統として継げないので、「呉族系を装った」と言う疑惑を感じる。

反乱者である大海人皇子が勝利すると言う、史上例の少ない内乱であった。

天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたる為これを壬申の乱と呼んでいる。

大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して、帝位に付き、天武(てんむ)天皇(第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。

最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。

その説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。

いずれにしても、この「壬申(じんしん)の乱」の後は、天智大王(てんちおおきみ/天皇)系の皇統と天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)系の皇統が約百二十年間、女帝も交えて複雑に絡み合う幾つもの物語が幕を挙げる時代となるのだ

大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑 】に続く。

詳しくは、小論【大海人皇子(おおあまのみこ)は何者か?】を参照下さい。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 08:21  

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