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坂本龍馬(さかもとりょうま)

坂本龍馬(さかもとりょうま)は、江戸時代末期の土佐藩士である。

坂本龍馬の才能は、機会(チャンス)に恵まれて開花した。

但しこの幕末期(江戸時代末期)に於いて最も有名な男・坂本龍馬、全国的に有名に成ったのは維新後の事で、マスメディアの発達して居なかったリアルタイムでは知る人のみぞ知る存在だった。

土佐藩下士(郷士)の軽輩・坂本龍馬は、岩の僅かなひび割れから滲(にじ)み出るように表舞台に姿を現したのだ。

もし、この事を「神の意志だ」と言うのなら、我輩も同意せざるを得無い。

運も実力の内だが、坂本龍馬のデビューは言わば幸運の連続だった。

土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家の次男・龍馬は、剣術修行に江戸に出て北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟の通称・小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。

その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と友人関係、また重太郎の妹・千葉さな子は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。

龍馬が幕府政事総裁職の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に面会できたのはこの「千葉重太郎の紹介」と言われ、そこからまるで「わらしべ長者」のように春嶽の紹介状を携えて、勝海舟(かつかいしゅう)に弟子入りしている。

龍馬は通称で、本名は坂本直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)他に才谷梅太郎などの変名がある。

その出自であるが、坂本家が主君に差し出した「先祖書指出控」には、「先祖、坂本太郎五郎、生国は山城国、郡村未だ詳(あき)らかならず、「仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住致す」とある。

この仕声弓戦之難が、千五百八十五年(天正十三)の秀吉に拠る紀州(根来衆雑賀衆)征伐であり、長岡郡才谷村が、雑賀、伊賀、根来、の落人達が住み着いた所である。

坂本龍馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶほか、城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

この二度目の竜馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。

坂本龍馬は、千八百六十一年(文久元年)に武市瑞山(半平太)らの土佐勤王党結成に参画するが、翌年の勤王党による吉田東洋(よしだとうよう)の暗殺には参加せず、千八百六十二年三月に沢村惣之丞とともに脱藩した。

千八百六十五年(慶応元年)五月に西郷隆盛(さいごうたかもり)は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。

その後西郷隆盛(さいごうたかもり)は、「幕府の征長出兵命令を拒否すべし」と説いて藩論をまとめ、大番頭・一身家老組(一代限り家老待遇)に任命された。

この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して総督・紀州藩主・徳川家承以下十六藩の兵約六万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させた後、閏五月に京都に入った。

家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。

六月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)と会う事を約束させた。

しかし、西郷は大久保利通(おおくぼとしみち)から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取り止め、急ぎ上京した。

坂本龍馬は、越前(福井県)藩主松平春嶽にも謁見し勝海舟の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許され、横井小楠(よこいしょうなん) とも対面する。

千八百六十六年(慶応二年)、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟が結ばれた。

龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の「指示を受けて動いていた」と言う説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性に付いては評価が分かれている。

残酷ではあるが、夢を持った者だけがこの競技(出世のチャンス)に参加する事が出来た。

「維新の大乱」とは、そう言うものだった。

しかし、夢が大きければ大きいほど、リスクも大きかった。

この騒乱は多くの「有意の志士」を失って、少しずつ事が進んでいたが、龍馬の志は他の志士達とは一風変わっていた。

龍馬の魅力は、権力奪取に固執しない自由な生き方を標榜する透明感であり、それは安土桃山期に活躍した雑賀孫市の生き方に共通している。

つまり龍馬にすれば、体制を代えるのはあくまでも夢の一歩だった。

それでも、この危急の時に「無傷で通る訳が無い」と言う覚悟は出来ていた。

いや、まかり間違えれば、この世ともお別れだった。

だとしても、自由な通商が出来る新しい世の中は、座していてはやって来ない。

彼の純真な心根が、周りを巻き込む特異な存在だった点で、彼が明治維新を回転させた「動力源」となり得たのでは無いだろうか?

同年(千八百六十六年・慶応二年)、第二次長州征伐で、坂本龍馬は亀山社中の船・乙丑丸(いっちゅうまる)で長州藩海軍を支援する。

千八百六十七年(慶応三年)、土佐藩との関係を修復して、海援隊を創設した。

後藤象二郎と共に船中八策を策定し、後藤象二郎山内豊信を説いて土佐藩の進言による徳川慶喜(とくがわよしのぶ)大政奉還を実現させるきっかけを作ったのである。

坂本龍馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。

優しすぎて姉の乙女(おとめ)などは龍馬を弱虫呼ばわりして、剣術を教え込んだ逸話が残っている。

坂本龍馬に関しては千葉道場の免許を得ている所から剣術の達人と描かれる事が多いが、実は「さほど剣の腕は立た無かった」と言われている。

剣は江戸で北辰一刀流を修めたが「一番低い目録」でたいして腕は立たず、短銃を常に携帯して斬り合いは避けていた。

しかし交渉能力は高く、政情が落ち着いたら、その能力を生かして通商で国を支える積りだった。

だが、そんな龍馬の気持ちは周囲には受け入れられないほど、龍馬の影響力は膨らんでいた。

横着な者は、「言わなくても判る筈だ」とその努力をせずに敵を造る。

面白いもので、坂本龍馬には持って生まれたネゴシェーター(交渉人)の才能が在ったらしく、龍馬は源頼朝徳川家康同様に手紙魔で見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

それが裏目に出て、龍馬は維新を主導した志士の一人に目されてしまって居た。

もっとも、維新の中心人物の大半が筆マメだった事は事実で、つまり信頼の獲得にはいかに「コミニケーションが大事」と言う事である。

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坂本龍馬(さかもとりょうま)については第五巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第五巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 09:09  

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