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雑賀衆(さいがしゅう)

日本の芸能のルーツは、陰陽修験の信仰から始まっている。

古来修験道では、宗教音楽と宗教舞(歌舞音曲)と修験武術は、一体(組み合わせ)の習得すべき技だった。

あくまでも伝承であるが、聖徳太子は秦氏の河勝(香具師の祖)・伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した」と伝えられる。

この伝承が事実で有るなら、役小角(えんのおづぬ)を祖とする修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して聖徳太子の手足になった伊賀・甲賀の発生に欠かせないのが、まさに葛城氏系賀茂氏の血統である。

女系の婚姻関係で藤原氏、大伴氏、服部氏などと繋がり、賀茂氏の血統は、あらゆる形で血統が大きく広がりを見せ始める。

つまり、多くの氏族にも女系で賀茂の血が広がり、氏は違っても勘解由小路党に加わる者も多かった。

その勘解由小路党の伊賀・服部氏族の中に表向き「能楽をもって諜報活動をする」一族が現れる。

服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。

勿論「武門」であるから諸芸に通じ、武術にも怠り無いのが勘解由小路党の草である。

雑賀衆(さいがしゅう)は、十五世紀頃に歴史上の文献に現れ、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市)の諸荘園(雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷の鈴木氏など)に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した土豪集団である。

応仁の乱(おうにんのらん)の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長して行った。

紀ノ川河口付近を抑える事から、「海運や貿易にも携わっていた」と考えられ、水軍も擁していたようである。

種子島に鉄砲(種子島)の製造法が伝来すると、鉄砲の製造に関わった根来衆に続いて雑賀衆もいち早く武器として鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた傭兵軍事集団へと成長する。

十六世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。

応仁の乱、明応の政変を経て戦国期に入ると、環境の変化で勘解由小路党も本来の存在意義を失い、それぞれが変化を遂げて土着の国人領主や地侍集団として生き残った。

帝の権力護持をその使命として誕生した勘解由小路党の草(土着郷士)達も、もはや帝への忠誠心を希薄化していた。

雑賀(さいが)衆もその中の一つで、紀州国・雑賀(さいが)郷七万石を集団で領していた。

紀州雑賀郷の郷士集団・雑賀衆(さいがしゅう)を束ねる有力棟梁の一人が、雑賀孫市を名乗っている。

雑賀衆の棟梁は、雑賀(佐大夫)孫市と名乗る不思議な男であったが、その孫市が率いる雑賀(さいが)衆達も、実に奇妙な地侍集団であった。

室町時代、堺(港)は南蛮貿易の基地として発達した。

当時の堺商人は、室町幕府の衰える中、だれからも束縛されない自由勝手な貿易で財力を蓄えて、下手な領主など及ばないほど栄えていた。

それと結びついていたのが、同じ自由思想を持つ武士集団、「雑賀衆(さいがしゅう)」だったのである。

彼らは地侍の傭兵集団で、戦闘を請け負う事を生業(なりわい)にしていたが、時の移ろいの中で勘解由小路党の修験密教から外れて、熱狂的な一向宗徒になっている。

合戦が有る度に諸国の大名に買われて戦さをし、念仏を唱(とな)えながら人を殺してその謝礼をもって衣食の道を立てていた。

それだけなら戦国乱世には、他にも似た傭兵集団はあった。

だがこの地侍集団は、突出して強力な戦闘能力を持っていった。

戦国期は、雑賀孫市を党主(棟梁)とするこの地侍集団を、引く手数多(あまた)にしていた。

彼らが新兵器の鉄砲技術集団であったからだ。

この雑賀孫市、実は特筆すべき由緒正しい家柄だが、その正体はいずれこの物語で読者に明かす事にする。

雑賀郷士はおよそ三千余り、大名では無く、幾つかの集団に分かれている地着きの傭兵集団で、大名にも仕えてもいないが、併せた所領は七万石、兵力にすれば十万石程度の力はあり、郷の若い娘にも手練(てだれ)の者は居た。

所謂(いわゆる)地着きの武装氏郷士である。

哀しい事に、雑賀郷士の家に生まれて生きる為に学ぶ術は、剣術、砲術、忍術、いずれにしても、人を殺す術(武術)である。

そう、殺人マシーンに育てられる事が、自動的に背負わされる氏族の宿命と言える。

雑賀孫市は有力な棟梁で、手の者は千三百余り、手が足りない時は郷の仲間内から助っ人を借りる。

雑賀郷は丸々一向宗の門徒で、熱心な信仰をする人々ではある。

所が、矛盾する事に彼らは殺戮(さつりく)請負の傭兵集団である。

雑賀の軍勢は、「念仏を唱えながら襲い掛かる」と言われて、敵対する相手からは恐れられている。

実は、当時の信仰と殺戮請負の傭兵集団は矛盾しないのである。

信仰の原点は「自己に対する現世利益」で、他人の生死は問題ではない。

あくまでも「自らの武運を願うだけ」である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 10:14  

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