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衣川館の襲撃(平泉・高館/たかだち)

藤原秀衛(ふじわらひでひら)が亡くなったのは、源義経が奥州に逃げ込んで一年後の事である。

最初は、泰衡も父の言い付けを守っていた。

しかし、秀衛が亡なって二年間も上皇の義経追討の院宣を盾に頼朝に脅かされ続けると、泰衛は頼朝の圧力に抗せず、頼朝の命令を守れば、「奥州藤原家を存続させてくれるだろう」と信じた。

藤原泰衡は遂に配下の長崎太郎に義経主従を闇討ちで衣川館に襲撃させ義経を自害させる。

高館(たかだち)は北上川の支流・衣川の辺(ほとり)、中尊寺の東南にある丘陵の呼び名であるが、そこの屋敷も高館(たかだち)或いは衣川館と呼ばれ、義経主従の住まいに成って居た。

「義経記」や「吾妻鏡」を総合すると、千百八十九年(文治五年)源義経主従が平泉衣川の高館(たかだち・衣川館)において藤原泰衡の家臣・長崎太郎の軍勢五百騎に囲まれた。

その時義経に従うは百戦錬磨の兵(つわもの)であったが、戦えるのは武蔵坊弁慶伊勢義盛(いせよしもり)、片岡八郎、鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟、鷲尾義久(わしおよしひさ)、増尾(ますお)十郎、備前平四郎(びぜんへいしろう)の八人だった。

それに正室(仮・玉御前)の老傳役(ろうもりやく・六十三歳)の増尾十郎権頭兼房(ますおじゅうろうごんのかみかねふさ)と、従者・喜三太(きさんた)の二人を加えても僅か十人の総勢で、五百騎相手に、十騎ばかりで勝ち目など最初から無かった。

哀しいかな源家の九男坊に産まれた事で、遮那王(しゃなおう・源義経)は、幼い頃から運命(さだめ)に立ち向かう気力を持たされて育っていた。

一瞬の分れ目が、運命を決する。

義経は、この期(ご)に及んで美を取った。

藤原泰衡の裏切りを知った義経は、寄せ手と何度か切り結んで「弁慶世話になった。

これで幕引きじゃ。」と叫んだ。

武蔵坊弁慶以下八人の兵(つわもの)が藤原勢と斬り結び皆義経を守って次々に討ち死にして行く。

「此処は通しませぬ。殿は館内(やかたうち)で御最後を・・・」弁慶が寄せ手を防いでいる間に義経は館の奥に戻り、正室(仮・玉御前)と子供は義経の手に掛かって果て、義経も自刃して波乱の生涯の終焉を迎えた。

館に火が放たれ、紅蓮の炎が上がっていた。

源義経の生涯は、後白河帝の思いに仕組まれ、兄・源頼朝の猜疑心に翻弄された不条理なものだった。

それでも義経は、短いが確かな愛の時間にもめぐり合っていた。

正妻・河越氏(河越重頼)の娘・玉御前(仮名)と静御前である。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 11:48  

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