後三年の役(ごさんねんのえき)
この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。
源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。
以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。
源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。
処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから弟の清衝と家衝が敵に回り、兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。
これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは、殺し合いに発展する。
この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源義家に、清衛、家衛が投降した。
源義家は二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。
しかし家衛が不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。
それで、奥州は、再び戦乱に成ってしまった。
清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。
その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて、家衛を討ち取る。
これを、「後三年の役」と言う。
しかし、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損であった。
この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。
義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。
それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。
しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。
朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分に従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。
源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。
その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。
つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権)での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。
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