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帰蝶(きちょう/濃姫)

尾張国の新興戦国大名織田家当主・織田信秀の嫡男・織田信長傅役(お守り役)平手政秀の尽力で嫁を貰う。

通称濃姫(帰蝶・きちょう)が、美濃の国主・斉藤道三の娘で有り、信長の妻として輿入れしたのは、大方の日本人で有れば先刻承知の事である。

この縁組の事を、「政略結婚」と言われているが、果たしてそうだろうか?

確かに美濃と尾張は国境をはさんで紛争が絶えなかった。

濃姫(帰蝶)が信長と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長十六歳、濃姫十五歳だった。

当時としては、大名豪族の縁組としてはさほど早くは無い。

御年頃としては似合いの年恰好で有る。

この濃姫が信長の下に輿入れして、従兄弟の明智光秀を織田家に呼び寄せたのは間違いない。

斉藤帰蝶(さいとうきちょう/濃姫)は、美濃国々主・斉藤道三(さいとうどうさん)と正室・小見方(明智光継の娘)との間に出来た娘である。

道三正室の小見方は、道三(どうさん)が下克上で美濃国を乗っ取る前、美濃国々主・土岐家の家臣時代に土岐頼芸の側室だった小見方を弓の掛け試合で勝ち拝領した経緯が在る。

兄にあたる二代国主・斉藤義龍(さいとうよしたつ)は、道三が小見方を拝領した時には既に「頼芸の子を身篭っていた」と言う噂もあり、同腹異父の兄の可能性がある。

夫・織田信長は、美濃国攻略後は側室・生駒吉乃を寵愛して子を為した為、正室・帰蝶(きちょう/濃姫)の史料は極めて乏く、没年については諸説ある。

江戸期以前は、戦乱が永く続いた事や男系重視で男性主導の社会環境(女性には奥ゆかしさが求められていた)に置かれていた事もあり、女性を書き残した文献は少なく、名さえ判明しない事も多々あり、誰々の女(娘)、誰々の室(妻・妾)と言った表現が多く、その日常や消息を伺い知る手がかりは少ない。

か、と言って、彼女達が男の只々言う事を聞いていただけの存在ではけしてない。

その時代の生活様式に乗っ取っただけで、男の行動はすべからく女性に影響を受けているからである。

濃姫(帰蝶)について、余り文献が無い事から「早くに亡くなった」とか「病死した」とかの説があるがそうは思えない。

濃姫の血縁があっての、この物語の成立と思えるからだ。

しかしながら明智光秀の織田家仕官は、信長の美濃攻略成功後、濃姫が母方従弟の明智光秀の存在を信長に紹介したのが、「二人を引き合わせたきっかけ」とするのが自然で有る。

他に、越前朝倉家に居た明智光秀をわざわざスカウトする「接点は無い」と思われる。

明智光秀は、自分で売り込んだのではなく、信長に書状で召し出されている。

その事から、濃姫は健在で有り「安土殿」と呼ばれた女性が、濃姫の事ではないだろうか?

元々女性の事は書き残してこなかったのが日本の文献の実態で、資料が少ない事に不思議は無い。

ただ有力な説として織田信長次男・信雄の「織田信雄分限帳」に記載されている「安土殿」か、もっとも知行の多い「御局」と言う人物が帰蝶(きちょう/濃姫)と言う可能性もあり、そうなると本能寺の変以後も生きて居た事に成る。

その「安土殿」は本能寺の変以後も生き延び、千六百十二年(慶長十七年七月の初旬)に七十八歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 14:49 | Comments(0)  

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