北畠顕家(きたばたけあきいえ)

北畠顕家 (きたばたけあきいえ) は、北畠親房を父に持ち村上源氏の流れをくむ公家・北畠家の当主だったが、北畠家は武門でもあった。

縁戚でもある後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を決意して兵を上げた為、その去就が決まった。

この北畠顕家(きたばたけあきいえ)が加わった戦乱を元弘の乱(げんこうのらん)と呼ぶ。

一旦は鎌倉幕府倒幕に成功し「建武の中興」が始まったが、足利尊氏が反旗を翻(ひるがえ)す大事態に成る。

この時、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞や北畠顕家が、天皇の命により足利尊氏の討伐に立ち上がる。

この時代、彼らの行動を突き動かしていたのは、使命感である。

厳密に言うと、征服者氏族の使命感で今の感覚ではとても理解はし難い。

後醍醐天皇に近侍し、建武の新政を補佐していた北畠親房の長男が北畠顕家(きたばたけあきいえ)である。

鎌倉幕府の倒幕に成功して千三百三十四年(建武元年)建武の新政が成ると、北畠顕家(きたばたけあきいえ)はまだ後醍醐帝の威光が届いていなかった奥州(東北地方)経営の為に従三位陸奥守を拝命、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)を奉じ、父・親房とともに陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に下向、その年(建武元年)従二位に再び叙任し翌・建武二年には鎮守府将軍に任ぜられる。

所が、足利尊氏が鎌倉にて後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し軍を率いて都に迫った為、顕家(あきいえ)は奥州の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京し、新田義貞、楠木正成の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる。

顕家(あきいえ)はこの戦勝の功に拠り権中納言に任官するも、留守中に奥州で蜂起した足利方を掃討する為に再び奥州へ戻っている。

この留守中に九州へ落ち延びた足利尊氏が西国武将を結集して勢力を盛り返し、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で新田義貞・楠木正成の両軍を破り都を制圧して後醍醐天皇を吉野に追いやってしまう。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は千三百三十八年(建武五年)、義良親王(のりながしんのう)を奉じて再び西上して足利方と戦い鎌倉を攻略する。

その勢いに乗じて美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で足利方に勝利したものの、足利方主力が近江国から美濃に入った事を知った顕家は度重なる戦闘で兵力の減少や疲弊により京攻略を諦めざるを得なくなる。

顕家(あきいえ)は止む応う得ず吉野の背後である伊勢に後退し、次いで伊賀に進出した。

その後も顕家(あきいえ)は奈良などを中心に高師直の大軍を相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦石津に追い詰められ、足利方に包囲されて尚も奮戦したものの、予定していた味方の援軍到着遅延の為に高師直軍との戦いでは劣勢に回り全軍が潰走し、共廻り等二百騎を従え最後の抵抗を試みるが落馬して討ち取られてしまう。

この後醍醐帝の為に獅子奮迅の活躍を見せた北畠顕家(きたばたけあきいえ))、討ち死にした時の年齢はまだ僅か二十一歳と伝えられている。

詳細は【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 14:56 | Comments(0)  

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