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伊藤博文(いとうひろぶみ)

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、千八百四十一年(天保十二年)農家・林十蔵の長男として周防国・熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれている。

つまり元は農家の家で士分では無く家は貧乏だったのだが、父・十蔵が長州・萩藩の中間・水井武兵衛の養子と成った事がきっかけで、父・十蔵の道が開ける。

父・十蔵は余程運が良かったのか、養子と成った養父の中間・水井武兵衛がさらに周防国佐波郡相畑の武士・伊藤氏の養子となって伊藤直右衛門と名乗った。

その幸運で、父・十蔵も幼き頃の利助(伊藤博文)も士分・伊藤氏を名乗り長州・萩藩下級武士に列する道が開けたのである。

その後利助(伊藤博文)は伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)を名乗り、十六歳で吉田松陰 (よしだしょういん)松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。

俊輔(しゅんすけ)は、年齢も入塾も吉田稔麿(よしだとしまろ)と同学年だった。

高杉晋作井上馨(いのうえかおる/井上聞多)らと尊王攘夷の倒幕運動に加わるようになる。

伊藤達長州藩倒幕派は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用され、長州藩の藩政に参画して指導的役割を果たした。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、仲間と共に公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、塙次郎・加藤甲次郎を暗殺し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は千八百六十三年(文久三年)、武器商人・トーマス・ブレーク・グラバーの仲介で、上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。ところが、留学中に余りにも圧倒的なイギリスとの差を目の当たりにして開国論に転じている。

この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度は明治維新直後から官費教育制度として形を変え、多くの渡航留学生を派遣して専門知識を習得させ、多くの指導者を輩出させた。

つまり特権身分に多くの学習機会を与える官費教育制度は、実は官僚の特権として形を変え、現代にまで続いている。

そのイギリス留学中に四国連合艦隊による長州藩攻撃の機運を知り、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は急遽井上聞多と帰国し四国連合艦隊との戦争回避に奔走するも藩論をまとめ切れず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。

朝廷をめぐる主導権争いから長州藩と幕府の間は不穏な状態となり、幕府軍に拠る第一次長州征討(幕長戦争)が始まり、長州藩の藩論が幕府に恭順の姿勢を見せると、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵する。

力士隊は勢いを得て奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、高杉や伊藤達の正義派(革新派)が藩政を握った。

維新後、この伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として明治政府参与、岩倉使節団参加西南戦争における西郷隆盛(さいごうたかもり)の敗死、大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺された後の内務卿、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定、初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣を歴任している明治期の元勲である。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、拡大主義を取る政府内に在って数少ない国際協調重視派で、日露戦争では日露協商論・満韓交換論を主張してロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対している。

第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)に拠って大韓帝国が日本の保護国となり、日本が実質的な朝鮮の支配権を掌握すると、伊藤博文(いとうひろぶみ)は設置され韓国統監府の初代統監に就任する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。

韓国統監府統監を辞任し、枢密院議長に復帰した千九百九年(明治四十二年)、伊藤博文(いとうひろぶみ)はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(あんじゅんこん)によって狙撃され死亡し、日比谷公園で国葬が営まれた。

この暗殺事件がきっかけとなり、また日韓合邦推進派の口実とされ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が意図しなかった日本による韓国併合は急速に進んだのである。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?
そう考えれば、合点が行く事が在るのだ。

伊藤博文は国家の重鎮として四度も内閣総理大臣を勤めた。

ただ、宮中側近の元田永孚や佐々木高行等は保守的で、それを信任した天皇に立憲君主制に対する理解を深め、日本の政治体制の近代化を進めて貰うに伊藤は苦慮した。

そうした環境下に在って、伊藤が政党(立憲政友会)を結成出来たのは、明治天皇と伊藤博文の強い信頼関係に特別なものが在ったのではないだろうか?

つまり他の者にあらず、明治天皇と伊藤博文の強く特別な信頼関係無くして日本の政党政治は幕をあげる事はできなかった。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:29 | Comments(0)  

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