足利義満(あしかがよしみつ)

足利義満は、室町幕府絶頂期に君臨した第三代征夷大将軍である。

北朝第五代・後円融天皇(ごえんゆうてんのう)と南朝第四代(通算第九十九代の後亀山天皇の時代)に両朝廷は一旦和解した。

明徳和約」をもって、南朝・後亀山天皇から北朝の御円融天皇(ごえんゆうてんのう/北朝五代)の皇子・後小松天皇(ごこまつてんのう/第百代)に和解の上に繋がれた事になっている。

この、後小松天皇には「出生疑惑が有る」と言うのだ。

彼の実の父は、当時並ぶもの無き権力者の将軍「(足利)義満だ」と言う説である。
先帝・御円融天皇(ごえんゆうてんのう)は、「自殺した」と言うのだ。

原因は時の権力者足利将軍・義満に、飾り者にされ、皇后・妃三人を次々犯され、反撃も出来ず、「世を儚(はかな)んで命を絶った」と言う。

決果、皇后から生まれた後小松天皇は、将軍義満の種で、「皇統は途絶えた」と言う噂である。

もっとも足利家も、清和源氏河内流れの皇胤貴族の出であるから、厳密に言えば皇統が途絶えた訳ではない。

将軍・義満は、将軍職を第四代義持に譲ると、朝廷を差し置いて明の洪武帝から「日本国王」の称号を得ている。

これは明らかに明国からの冊封(さくふう・さくほう)であり、国際認知から言えば、天皇ではなく足利義満が国家元首である。

冊封(さくふう)とは、多分に建前の部分(形式的)ではあるが、ある種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、当時無くてはなら無いもので、それが、冊封(さくふう・さくほう)朝貢(ちようけん)の制度である。

すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国の体裁)をとる事で、ある種の国際関係の形式を成立させていたのだ。

つまり、近隣国の存在を国際的に認定する役目を、中国歴代帝国の皇帝は、長い事負っていた。

冊封(さくふう・さくほう)は、近隣国の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、その対外的地位を足利義満は使者を送る朝貢(ちようけん)により、獲得していた。

さらに、足利義満の死後ではあるが、朝廷より「太上天皇」の尊号を賜って、息子の四代将軍「義持」が慌てて辞退しているが、後小松天皇の実父の件が事実なら、ありえそうな話である。

後小松(ごこまつ)天皇と将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の不可解】に続く。

詳しくは小論・【後小松天皇(ごこまつてんのう)出生疑惑】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 02:51 | Comments(0)  

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