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元寇(げんこう)=モンゴル襲来

元寇(げんこう)は、広域倭の国内の国々との武力紛争を除くと大和朝廷成立後初めてにして最大の他国からの侵略防衛戦だった。

この「元寇(げんこう)」 と言う名称については旧用語の判り難さがあり、「モンゴル襲来」と表現すべきとする意見が採用されつつある。


平家を倒して鎌倉幕府を成立させた源頼朝が没して二十二年後、尼将軍と呼ばれて鎌倉幕府を率いる北条政子の横暴を理由に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、後鳥羽上皇が敗れている。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱を勝利で収めた事で、権力を確たるものにした北条得宗家(執権家)の治世で最大の出来事は、鎌倉幕府成立後七十五年目の元軍の襲来だった。

鎌倉後期、執権・北条時宗(ほうじょうときむね/第八代)の時代に、大陸の大帝国・元(げん/モンゴル)の大軍(たいぐん)が襲来する。

元(げん/モンゴル)帝国を支配(しはい)した蒙古人(モンゴル人)のフビライ・ハーンは、モンゴル帝国を興したチンギス・ハーンの孫(チンギスの四男トルイの子)にあたる。

フビライ・ハーンは、朝鮮半島の国・高麗(コリョ)を征服(せいふく)し属国とした後、日本をも属国に従えようとして蒙古への服属を求める内容の国書を携えた使者を送った。

しかし、時の鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否(きょひ)し、九州の防備(ぼうび)をかためた結果、日本は国難回避で結束した。

千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗国(コリョグオ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。

元軍は集団戦法で個人武術戦法の日本軍を苦しめ火薬を使い有利に戦ったが、日本の武士も良く防戦する内に元軍の船団がシケ(暴風)に拠って大打撃を受け、後方支援(食料や武器の補給活動)を失って退却する。

九州西北部に広がる玄界灘(到る東シナ海)は、南風が吹くシケ(暴風)と成って海面が大荒れに荒れる。

蒙古の襲来と南風のシケ(暴風)が重なって、長崎県の松浦市鷹島の入り江には蒙古の船が沈んでいる。

上陸後の陸戦の為、鎖合わせに繋いで停泊していた四千四百隻の蒙古の大船団は、荒れる海で繋ぎ合わされた舟が互いに引き合って転覆した。

この第一回目の元寇(げんこう)を「文永(ぶんえい)の役(えき)」と呼ぶのだが、内陸の国「元(モンゴル)」には本来海軍はない。

実は「元寇」として日本に襲来した兵の大半は、「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。

最初の襲来に失敗した元軍(げんぐん)は、七年後の千二百八十一年(弘安四年)に新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮半島と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。

これを「弘安(こうあん)の役(えき)」と呼ぶのだが、寄せ手がモンゴル・中国・高麗(コリョ/朝鮮)の兵士からなる元軍は混成軍の為に指揮系統にまとまりが無く、引き換え日本軍は海岸荷を石垣を築いて上陸を阻み、元(げん)の船に乗り込む奇襲で戦うなど水際戦は有利に戦っている。


モンゴル帝国の第五代大ハーン(皇帝)・フビライが二度目の元寇時に日本に襲来に使った軍船は、南宋船である。

二度目に日本を攻める計画を起こした時、フビライは必要な船を揃えるに南宗を拠点にしていたイースラム商人の貿易船に目を着けた。

フビライはイースラム商人を提督に採用して軍船を作らせ、足りない分は貿易船を徴用して軍船団を揃えた。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍とイースラム商人の貿易船だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。

日本に幸運な事に、この時も元軍(げんぐん)はシケ(暴風)に会い、南宋の船団は多くの船が沈ずむ被害を出して戦う事なく撤退している。

二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹き、海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。

日本の海の神・スサノウが、怒り暴れたのだろうか?

陸上戦に強い元軍だったが、日本攻略に失敗したのは本国のフビライ・ハーンが日本の気象状況と海上戦に疎(うと)かったにも関わらず侵略戦を強行させた慢心がもっとも主な原因と考えられる。

但し日蓮宗の一部では、この神風を「日蓮上人の法力に依るもの」と言う信仰上の言い伝えも存在する。

しかし日蓮上人が、蒙古襲来(元寇)を言い当てたのだって、なにも上人の法力の為せる技では無い。

当時の東アジア情勢と鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が、蒙古への服属を求める内容のフビライ・ハーンの国書を拒否(きょひ)していたのだから、憶測は着く。

そして勿論、蒙古襲来(元寇)時に蒙古軍がシケ(暴風)に拠って大打撃を受けた神風(かみかぜ)だって自然現象で、日蓮上人の法力ではない。

この文永・弘安の二つの役を総称して元寇(げんこう)と呼ぶ。

国益(こくえき)と神風伝説(かみかぜでんせつ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-05-22 04:54  

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