源平合戦の真実

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位した所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。
しかし平清盛に破れ敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で部下に殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国・韮山の地で過ごしている。

この流人の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族・北条家で、当主は北条時政と言った。

北条政子は、時政の娘である。

弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。

傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。

義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり、人気は上々である。

これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。

源九郎判官(みなもと・くろう、ほうがん)義経と言う。

名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?

見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。

頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の頭領」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因であった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。

真っ先に上げられるのが、北条一族である。

そして、緒戦「石橋山合戦」の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。

千葉氏上総氏などの、安房の豪族平氏達も「しかり」である。

頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。

この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。

彼らは平氏ではあったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。

将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は、源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役後三年の役で、源氏の棟梁・源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って、平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半をしめていた。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。

つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。

従って、時代と地の利を得たのが源頼朝であったのだ。

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by mmcjiyodan | 2008-06-13 19:10 | Comments(0)  

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